『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その20

その19の続き。


冬十二月、雷。
更名匈奴單于曰降奴服于。
莽曰「降奴服于知威侮五行、背畔四條、侵犯西域、廷及邊垂、為元元害、辠當夷滅。命遣立國將軍孫建等凡十二將、十道並出、共行皇天之威、罰于知之身。惟知先祖故呼韓邪單于稽侯狦累世忠孝、保塞守徼、不忍以一知之罪、滅稽侯狦之世。今分匈奴土人民以為十五、立稽侯狦子孫十五人為單于。遣中郎將藺苞・戴級馳之塞下、召拜當為單于者。諸匈奴人當坐虜知之法者、皆赦除之。」
遣五威將軍苗訢・虎賁將軍王況出五原、厭難將軍陳欽・震狄將軍王巡出雲中、振武將軍王嘉・平狄將軍王萌出代郡、相威將軍李棽・鎮遠將軍李翁出西河、誅貉將軍陽俊・討穢將軍嚴尤出漁陽、奮武將軍王駿・定胡將軍王晏出張掖、及褊裨以下百八十人。募天下囚徒・丁男・甲卒三十萬人、轉衆郡委輸五大夫衣裘・兵器・糧食、長吏送自負海江淮至北邊、使者馳傳督趣、以軍興法從事、天下騷動。先至者屯邊郡、須畢具乃同時出。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

冬十二月、雷が起こった。



匈奴単于を「降奴服于」と改称した。



王莽は言った。「降奴服于知は五行を侮り、四か条の約束を背き、西域を侵犯して辺境に及んで民の害となり、滅ぼされるべき罪がある。立国将軍孫建ら十二将に命じ、十の道から同時に出発させ、共に天の武威を行使し、降奴服于知の身にその罰を当てる。思うに、降奴服于知の先祖である呼韓邪単于稽侯狦は代々忠義と孝行の者であり、辺境を守ってきたのであるから、降奴服于知一人の罪によって呼韓邪単于の子孫を滅ぼすのは忍びない。今、匈奴の国土と民を十五に分割し、呼韓邪単于の子孫十五人を単于とする。中郎将藺苞・戴級は長城の元へ行き、単于となるべきものを召し出し拝命させよ。匈奴の人間で降奴服于知に連坐すべき者は、皆恩赦し連坐させない」



五威将軍苗訢、虎賁将軍王況を五原から出発させ、厭難将軍陳欽、震狄将軍王巡を雲中から出発させ、振武将軍王嘉、平狄将軍王萌を代郡から出発させ、相威将軍李棽、鎮遠将軍李翁を西河から出発させ、誅貉将軍陽俊、討穢将軍厳尤(荘尤)を漁陽から出発させ、奮武将軍王駿、定胡将軍王晏を張掖から出発させ、及び副将以下百八十人であった。天下の刑徒、成人男子、兵卒三十万人を募集し、五大夫の衣服、兵器、糧食を運ばせ、長官が自ら長江や淮水から北辺まで送り、使者は早馬で督促し、軍需物資に関する法令を適用したため、天下で騒動となった。早くに到着した者は辺境の郡に逗留し、揃うのを待って同時に出発した。



王莽、匈奴に飽和攻撃をかけようとする。



「降奴服于」の「知」とはその名である。以前、匈奴単于が中国にならって名前を一文字に改名したという話があった。その当人である。


名前から入ろうっていうのがこれまたいかにも王莽らしい。




また呼韓邪単于稽侯狦とは漢の宣帝への入朝を行った匈奴単于である。匈奴が漢に従った時の単于、ということだから、中国側からすると賢明で忠義心のある単于ということになるのだろう。




乃造設四條。中國人亡入匈奴者、烏孫亡降匈奴者、西域諸國佩中國印綬匈奴者、烏桓匈奴者、皆不得受。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)


「背畔四條」の「四条」というのは、平帝の頃に王莽の方で匈奴に対して新たに制定した約束のことである。中国人、烏孫、西域諸国、烏桓(烏丸)で匈奴に降伏しようとする者がいても受け入れるな、という内容らしい。


戊己校尉を殺した陳良たちは匈奴に逃げ込んだそうなので、この四か条に違反している、ということのようだ。