漢の漢たちを語る3「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場が起こしてるんだ!」:陳湯

前漢元帝の頃、北方の雄匈奴武帝時代の戦争で消耗した上に分裂し、複数の単于が乱立していた。

その王位争奪トーナメントに勝利した呼韓邪単于は漢に事実上臣従し、敗北した郅支単于は西域方面に逃走し機を窺っていたのである。



そんな時期に西域の漢に臣従する諸国と駐屯する漢兵を統括する西域都護になったのが甘延寿という人物だった。

彼は超絶的な身体能力の持ち主であり、軍事部門のエリートコースを歩んでいたと言える。



そして、彼に付けられた副官(副校尉)が陳湯であった。


彼は優れた能力と誰からも評価されない品行を兼ね備えた人物であった。
彼を評価する声は中央政界にも無いわけではなかったが、まあこれまでは冷や飯を食ってきたノンキャリアと言えよう。



既領外國、與(甘)延壽謀曰「夷狄畏服大種、其天性也。西域本屬匈奴、今郅支單于威名遠聞、侵陵烏孫・大宛、常為康居畫計、欲降服之。如得此二國、北撃伊列、西取安息、南排月氏・山離烏弋、數年之間、城郭諸國危矣。且其人剽悍、好戰伐、數取勝、久畜之、必為西域患。郅支單于雖所在絶遠、蠻夷無金城強弩之守、如發屯田吏士、從烏孫衆兵、直指其城下、彼亡則無所之、守則不足自保、千載之功可一朝而成也。」延壽亦以為然、欲奏請之、(陳)湯曰「國家與公卿議、大策非凡所見、事必不從。」延壽猶與不聽。
會其久病、湯獨矯制發城郭諸國兵・車師戊己校尉屯田吏士。延壽聞之、驚起、欲止焉。湯怒、按劍叱延壽曰「大衆已集會、豎子欲沮衆邪?」延壽遂從之、部勒行陳、益置揚威・白虎・合騎之校、漢兵・胡兵合四萬餘人、延壽・湯上疏自劾奏矯制、陳言兵状。
(『漢書』巻七十、陳湯伝)


そんな二人が西域に赴任した時、陳湯はこのような策を提案したという。

匈奴の郅支単于が西域の近隣諸国を攻め取ったらエライ事になる。しかし郅支単于は今本拠を離れて孤立しているから、漢の屯田兵烏孫ら西域諸国の兵を徴発して郅支単于を攻撃すれば、もはや逃げることも守ることもできないから、千年に一度の大功を一日にして挙げる事ができましょう」


甘延寿もそれに賛成し、漢の朝廷へその策の許可を得ようとした。

陳湯は「そんなことをしたら却下されますよ」と言う。だが甘延寿は朝廷の許可を得るべきとの気持ちを捨てることはできなかった。



その後、甘延寿が病気で休んでいるとき、陳湯は勝手に中央の命令と偽って西域諸国の兵を招集し、漢の兵を徴発し軍備を整え始めた。


それを知って驚いた甘延寿は陳湯に詰め寄り止めようとしたが、陳湯は剣に手を掛けて言い放つ。


「大軍は既に集まっているんだ!貴様今更何を言っている!事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」(一部意訳)

盗人猛々しいとはこのことであろう。


甘延寿もこのままでは自分自身の命が危険だと感じ、陳湯の策に従い、匈奴討伐軍の司令官として出陣することにしたのだった。




果して陳湯の策の通り郅支単于は討ち取られ、甘延寿・陳湯は凱旋を果たそうとしていた。


だが、中央政府は彼らの独断専行を問題視していた。まあ当然である。
独断専行しかも勅命と偽るということを無視して功績だけ褒賞したら、今後は恩賞を求めて命令違反や独断専行する輩が激増することになるからだ。

その上、陳湯は鹵獲品の横領横流しといった悪癖があったらしい。

初、中書令石顯嘗欲以姉妻延壽、延壽不取。及丞相・御史亦惡其矯制、皆不與湯。
湯素貪、所鹵獲財物入塞多不法。司隸校尉移書道上、繋吏士按驗之。湯上疏言「臣與吏士共誅郅支單于、幸得禽滅、萬里振旅、宜有使者迎勞道路。今司隸反逆收繫按驗、是為郅支報讐也!」上立出吏士、令縣道具酒食以過軍。
既至、論功、石顯・匡衡以為「延壽・湯擅興師矯制、幸得不誅、如復加爵土、則後奉使者爭欲乘危徼幸、生事於蠻夷、為國招難、漸不可開。」元帝内嘉延壽・湯功、而重違衡・顯之議、議久不決。
(『漢書』巻七十、陳湯伝)


陳湯は勅命と偽ったことから中央の印象最悪であり、横領の容疑を掛けられて捜査されることとなったのである。


これに対し、陳湯はまたも言い放った。


「いいんですか?私たちは郅支単于を討った功労者ですよ?本当なら凱旋をみんなで出迎えるべきなんじゃないですか?逆に捕えられて尋問されるとか、これはアレですか?郅支単于の仇を討つつもりですか?」


なかなかに不敵な物言いである。
自信と大胆さの表れとも取れるが、官僚としてはこんなに使い辛いヤツも少ないのではないだろうか。




甘延寿・陳湯に恩賞を与えるかについては議論が紛糾した。


政府側は勅命偽造の罰を免れるだけでもよしとすべきであると恩賞には否定的である。

しかし、劉向が「李広利でも恩賞受けているんだから恩賞与えておk」と進言したことで、元帝は彼らの罪を恩赦した上で甘延寿に列侯、陳湯には関内侯を与えることとした。



陳湯は関内侯にまで這い上がったのである。




しかしながら、中央政府に睨まれた陳湯の栄華は続かなかった。
皇帝が代わると以前の横領の罪を蒸し返されて官・爵を失い、その後も上書で誤りがあると死罪にされそうになった。

実力があっても上に睨まれるというのは危険なことなのだ。


まあ自業自得って気もするが。




陳湯は生まれる時代を間違えたタイプなんだろうと思う。
もう少し後に生まれて新末の世に生きていればその才能はもっと活かされ、その品行はそれほど問題視されずに済んだんじゃないだろうか。