徙戎論その8

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110604/1307116473の続き。

并州之胡、本實匈奴桀惡之寇也。漢宣之世、凍餒殘破、國内五裂、後合為二、呼韓邪遂衰弱孤危、不能自存、依阻塞下、委質柔服。建武中、南單于復來降附、遂令入塞、居於漠南、數世之後、亦輒叛戻、故何熙、梁慬戎車屢征。中平中、以黄巾賊起、發調其兵、部眾不從、而殺羌渠。由是於彌扶羅求助於漢、以討其賊。仍値世喪亂、遂乘釁而作、鹵掠趙魏、寇至河南。建安中、又使右賢王去卑誘質呼廚泉、聽其部落散居六郡。咸熙之際、以一部太強、分為三率。泰始之初、又筯為四。於是劉猛内叛、連結外虜。近者郝散之變、發於穀遠。今五部之眾、戸至數萬、人口之盛、過於西戎。然其天性驍勇、弓馬便利、倍於氐羌。若有不虞風塵之慮、則并州之域可為寒心。滎陽句驪本居遼東塞外、正始中、幽州刺史毋丘儉伐其叛者、徙其餘種。始徙之時、戸落百數、子孫孳息、今以千計、數世之後、必至殷熾。今百姓失職、猶或亡叛、犬馬肥充、則有噬齧、況於夷狄、能不為變!但顧其微弱勢力不陳耳。

并州の胡は元は匈奴でした。漢の宣帝の時代、匈奴は冷害と敗戦により単于が五人乱立する事態となり、その後二人の単于が立つこととなりました。呼韓邪単于は寿悪態化して自立できず、漢に降伏して長城そばに居り、人質を出して漢に服属することとなったのです。
後漢建武年間、南単于はまた漢に降伏し、長城の内側に入って砂漠の南に居住することを命じられました。数世代後、匈奴は反乱し、何熙や梁慬がしばしば征伐しました。中平年間、黄巾の乱が起こると匈奴の兵が徴発されましたが、匈奴の者が従わず、単于羌渠も殺されました。そこで単于の子於扶羅は漢に助けを求めましたが、ちょうど争乱が起こったため、隙に乗じて反乱し、趙・魏で略奪を働き、河南にまで至りました。
建安年間、右賢王去卑に於扶羅の弟呼廚泉を誘わせ、部族を北方の六郡に住むことを許しました。
咸熙の頃、一部族が強すぎるとの理由から三分割し、泰始初めには四つとしました。
そこで劉猛は内乱を起こし、他の四夷と連動しました。また最近では匈奴の郝散の反乱が上党郡穀遠で起こりました。今、匈奴の五部は数万戸の人口を誇り、その数は西戎以上です。その勇敢で弓馬に優れた資質も氐・羌の倍はあります。もし不測の事態が起これば、并州一帯は恐れおののくこととなるでしょう。
また、滎陽の句驪は元は遼東の長城外に住んでいた者たちでしたが、正始年間に幽州刺史毋丘倹が反乱者を討ち、その残党を強制移住させたのです。移住した当初は数百戸でしたが、今では千を超えており、数世代の後には隆盛することとなるでしょう。
人々が職を失えば逃亡や反乱を起こし、犬や馬も肥え太れば噛みつくことがあります。まして夷狄の彼らが反乱を起こさないでいられるでしょうか。今はただ勢力が弱いから反乱しないだけなのです。


江統さんは匈奴の沿革を語る。
前漢後半に中華の軍門に降った匈奴は、後漢の時代に長城内に住むこととなり、後漢末には有名な五部制の分割統治を受けることとなった。
郝散の乱は晋恵帝の時代、元康四年の事。この江統さんの上書の数年前である。穀遠は県名。

「滎陽句驪」はつまり魏の毋丘倹が高句麗を討った後にその残党を滎陽に内徙したということなのだろう。
曹操による烏丸内徙以来、魏では四夷内徙が積極的に進められていたようだ。
江統が指摘したような問題点は、その負の遺産をどうするかという喫緊の課題となっていたのだろう。