その24の続き。
而藺苞・戴級到塞下、招誘單于弟咸・咸子登入塞、脅拜咸為孝單于、賜黄金千斤、錦繡甚多、遣去。將登至長安、拜為順單于、留邸。
太師王舜自莽簒位後病悸、𡫏劇、死。
莽曰「昔齊太公以淑徳累世、為周氏太師、蓋予之所監也。其以舜子延襲父爵、為安新公、延弟襃新侯匡為太師將軍、永為新室輔。」
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)
藺苞・戴級は長城のあたりまで来ると、単于の弟の咸、咸の子の登を招き寄せて長城の内側へ入れ、脅して咸を孝単于に命じて黄金千金と大変多くの錦を下賜して帰還させた。登は長安まで連れて行って順単于に命じて屋敷に留めた。
太師王舜は王莽の簒奪以来動悸がするようになり、段々症状が激しくなってついに死去した。
王莽は言った。「昔、斉の太公望は代々素晴らしい徳の持ち主であったことから周の太師となった。これは予が見てきたことと同じである。王舜の子の王延に父の爵位を継がせ安新公とし、王延の弟の襃新侯王匡を太師将軍とし、末永く新王朝の補佐とする」
単于祭り開催のため匈奴へ派遣されていた連中は今の単于の弟たちを招いて単于を名乗らせた。
莽於是大分匈奴為十五單于、遣中郎將藺苞・副校尉戴級將兵萬騎、多齎珍寶至雲中塞下、招誘呼韓邪單于諸子、欲以次拜之。使譯出塞誘呼右犂汗王咸・咸子登・助三人、至則脅拜咸為孝單于、賜安車鼓車各一、黄金千斤、雜虵千匹、戲戟十。拜助為順單于、賜黄金五百斤。傳送助・登長安。
莽封苞為宣威公、拜為虎牙將軍。封級為揚威公、拜為虎賁將軍。
單于聞之、怒曰「先單于受漢宣帝恩、不可負也。今天子非宣帝子孫、何以得立?」遣左骨都侯・右伊秩訾王呼盧訾及左賢王樂將兵入雲中益壽塞、大殺吏民。是歳、建國三年也。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)
この時の顛末を『漢書』匈奴伝はこう記す。派遣された藺苞らは騎兵一万を率いていたこと、実は咸・登・助の三人が招かれていたこと、本来の匈奴単于が更に怒って侵攻してきたことが分かる。
なお『漢書』王莽伝で助の任命が飛ばされているのは上記の事情によるのだろう。おそらくだが助の方が血統上優先される存在だったが死んでしまったために登にお鉢が回ってきて、最終的には登が「順単于」になったということだ。
また王舜の死については、明言されていないものの、少し前の記事と照らし合わせると、甄豊らと同様に王莽の簒奪やその後の体制に不満なり気落ちなりがあったことが影響している(と解釈されている)、ということなのだろうと思う。
王莽が太公望を比較対象にしているのは、王舜は王莽にとっての太公望だ、ということらしい。元祖太公望の家は代々太師だったから、王莽にとっての太公望の息子にも太師を襲名させよう、という論理展開なのだろう。