『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その10

その9(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180125/1516806175)の続き。




五年春正月、廣陵王來朝、益國萬一千戸、賜錢二千萬、黄金二百斤、劍二、安車一、乗馬二駟。
夏、大旱。
六月、發三輔及郡國惡少年吏有告劾亡者、屯遼東。
秋、罷象郡、分屬鬱林・牂柯。
冬十一月、大雷。
十二月庚戌、丞相(王)訢薨。
(『漢書』巻七、昭帝紀

元鳳5年。



広陵王というのは武帝の子の劉胥のこと。つまりこの時点では生存する唯一の昭帝の兄である。



実兄への尊崇とご機嫌取りのための豪華な御下賜品なのだろう。



なおこの王は遊びが大好きで、鼎を持ち上げたり熊などの猛獣を素手でブチ殺したりする腕力の持ち主であったという。

始、昭帝時、胥見上年少無子、有覬欲心。而楚地巫鬼、胥迎女巫李女須、使下神祝詛。女須泣曰「孝武帝下我。」左右皆伏。言「吾必令胥為天子。」胥多賜女須錢、使禱巫山。
(『漢書』巻六十三、広陵窅王胥伝)


そして、裏ではこのように自分が皇帝になれるようにと祈祷(呪詛)をしていたという。





丞相王訢死す。武帝の時からの丞相田千秋の次の丞相である。


王訢、家在齊。本小吏佐史、稍遷至右輔都尉。武帝數幸扶風郡、訢共置辦、拜為右扶風。至孝昭時、代桑弘羊為御史大夫。元鳳三年、代田千秋為丞相、封二千戸。立二年、為人所上書言暴、自殺、不殊。子代立、為屬國都尉。
(『史記』巻二十、建元以来侯者年表)


なお、『史記』建元以来侯者年表では、この丞相王訢が乱暴な行いがあったと告発されたために自殺を図ったのだと記録されている。ただ『漢書』等では見えない話である。



なお、この王訢の子孫があの王莽の正妻である。