『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180204/1517670087)の続き。




元平元年四月、昭帝崩、毋嗣。
大將軍霍光請皇后徵昌邑王。
六月丙寅、王受皇帝璽綬、尊皇后曰皇太后
癸巳、光奏王賀淫亂、請廢。語在賀及光傳。
(『漢書』巻八、宣帝紀

昌邑哀王髆天漢四年立、十一年薨、子賀嗣。
立十三年、昭帝崩、無嗣、大將軍霍光徵王賀典喪。
璽書曰「制詔昌邑王、使行大鴻臚事少府樂成・宗正徳・光祿大夫吉・中郎將利漢徴王、乗七乗傳詣長安邸。」
(『漢書』巻六十三、昌邑王賀伝)

王受皇帝璽綬、襲尊號。
即位二十七日、行淫亂。大將軍光與羣臣議、白孝昭皇后、廢賀歸故國、賜湯沐邑二千戸、故王家財物皆與賀。及哀王女四人各賜湯沐邑千戸。
(『漢書』巻六十三、昌邑王賀伝)

霍光は(たぶん皇后上官氏の名のもと)昌邑王劉賀を昭帝の葬儀の喪主となるために呼び寄せた。つまり、次の皇帝として昌邑王になってもらう、という事である。



だが、昌邑王は領国から長安に行く道中、そして長安に着いてから「淫乱」な行いがあったとされ、霍光が主となって廃位された。



元平元年、昭帝崩、亡嗣。
武帝六男獨有廣陵王胥在、羣臣議所立、咸持廣陵王。王本以行失道、先帝所不用。光内不自安。
郎有上書言「周太王廢太伯立王季、文王舍伯邑考立武王、唯在所宜、雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗廟。」言合光意。
光以其書視丞相敞等、擢郎為九江太守、即日承皇太后詔、遣行大鴻臚事少府樂成・宗正徳・光祿大夫吉・中郎將利漢迎昌邑王賀。
賀者、武帝孫、昌邑哀王子也。既至、即位、行淫亂。
(『漢書』巻六十八、霍光伝)


なお、この時まだ武帝の子の広陵王が健在だったが、彼はかなりのパワータイプであった事や、おそらくこの時点では壮年以上の年齢で、霍光らがコントロールしにくい、といった点などが嫌われたのだろう。


また、昭帝と兄弟相続の形になると、礼制上の問題や、昭帝の皇后上官氏(霍光の孫)との関係が難しくなる、といった側面などもあったかもしれない。




だが昌邑王劉賀は霍光らの言うところでは「淫乱」ということであり、即位から一か月もたたずに廃位となったのである。



昌邑羣臣坐亡輔導之誼、陷王於惡、(霍)光悉誅殺二百餘人。出死、號呼市中曰「當斷不斷、反受其亂。」
(『漢書』巻六十八、霍光伝)


昌邑王の元々の家臣たちは王への教育がなっていなかったという理由で200人あまりが処刑された。

その一人は「断ずべき時に断じなかったために、逆に反乱された」と叫んだという。つまり、霍光を早く殺してしまえばよかった、という後悔の言葉であろう。





このあたりの話も色々あるのだが、今回はこれくらいにしておく。





とにかくまた皇帝不在となった朝廷。そこで次の皇帝として選ばれたのが・・・続く。