さかのぼり前漢情勢22

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後元の前の元号は征和。

この四年間の間にはいくつも大事件が起こっている。

征和元年時の丞相は公孫賀。
元は武人で武帝の衛皇后と姻戚関係にあり、長年太僕、丞相を勤めている人物である。

賀子敬聲、代賀為太僕、父子並居公卿位。敬聲以皇后姊子、驕奢不奉法、征和中擅用北軍錢千九百萬、發覺、下獄。
是時詔捕陽陵朱安世不能得、上求之急、賀自請逐捕安世以贖敬聲罪。上許之。後果得安世。
安世者、京師大侠也、聞賀欲以贖子、笑曰「丞相禍及宗矣。南山之竹不足受我辭、斜谷之木不足為我械」安世遂從獄中上書、告敬聲與陽石公主私通、及使人巫祭祠詛上、且上甘泉當馳道埋偶人、祝詛有惡言。
下有司案驗賀、窮治所犯、遂父子死獄中、家族。
(『漢書』公孫賀伝)

丞相公孫賀は息子の太僕公孫敬声の罪を購うために関中の侠者朱安世を捕らえた。
しかし朱安世は裏社会の事情に通じていたようで、報復として公孫敬声の発覚していなかった罪を暴露するという自爆テロに出たのである。
これにより丞相公孫賀自身も獄に下され、ついには獄死した。


現役丞相の獄死だけでも重大事件なのだが、本題はむしろここから。

(征和元年)冬十一月、發三輔騎士大搜上林、閉長安城門索、十一日乃解。巫蠱起。
二年春正月、丞相賀下獄死。
夏四月、大風發屋折木。
閏月、諸邑公主・陽石公主皆坐巫蠱死。
夏、行幸甘泉。
秋七月、按道侯韓說・使者江充等掘蠱太子宮。壬午、太子與皇后謀斬充、以節發兵與丞相劉屈氂大戰長安、死者數萬人。庚寅、太子亡、皇后自殺。初置城門屯兵。更節加黃旄。御史大夫暴勝之・司直田仁坐失縱、勝之自殺、仁要斬。
八月辛亥、太子自殺于湖。
(『漢書武帝紀)

公孫賀の事件はこの時期の朝廷を揺るがした「巫蠱」事件の発端でしかない。
衛皇后と繋がりのある丞相一族による皇帝の呪詛の疑い。
衛皇后近辺へと疑いの目が向けられるのは必定であった。
衛皇后の産んだ公主つまり皇帝の姫君が「巫蠱」の嫌疑により死に、さらには衛皇后が産んだ武帝の長男、すなわち皇太子にも捜査が入った。
そこで「巫蠱」の証拠が見つかったというのである。


これについては、取調べに当たった江充の自作自演であったという説が一般的である。

後上幸甘泉、疾病、充見上年老、恐晏駕後為太子所誅、因是為姦、奏言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者治巫蠱。充將胡巫掘地求偶人、捕蠱及夜祠、視鬼、染汙令有處、輒收捕驗治、燒鐵鉗灼、強服之。民轉相誣以巫蠱、吏輒劾以大逆亡道、坐而死者前後數萬人。
是時、上春秋高、疑左右皆為蠱祝詛、有與亡、莫敢訟其冤者。充既知上意、因言宮中有蠱氣、先治後宮希幸夫人、以次及皇后、遂掘蠱於太子宮、得桐木人。太子懼、不能自明、收充、自臨斬之。罵曰「趙虜!亂乃國王父子不足邪!乃復亂吾父子也!」太子繇是遂敗。
(『漢書』江充伝)

江充はかつて皇太子であっても違反行為に容赦しなかったため、武帝からは誉められたが皇太子の覚えは当然よろしくなかった。
そこで皇太子を失脚させようとの魂胆から「巫蠱」の嫌疑を皇太子にかけようとしたというのである。
「巫蠱」は呪いの人形などを地中に埋めたりするもので、注釈では皇太子宮で見つかったのは江充が捏造したものだという説が紹介されている。その真偽は定かではないが。


いずれにせよ、これにより皇太子はアウト。ほっとけば地位どころか命が無い。
生き延びる道が反乱しかなくなった皇太子は長安で死者数万を出すという内戦を起こしたが、丞相劉屈氂率いる官軍に敗れて死んだ。


この事件そのものも大事件なのだが、戦後処理も混迷を極めた。
なにしろ、皇太子が反乱した際には丞相に断固たる姿勢を見せるよう叱責した武帝が、終わってみると江充の偽りを知って皇太子を惜しむようになったというのだ。

車千秋、本姓田氏、其先齊諸田徙長陵。千秋為高寝郎、會衛太子為江充所譖敗、久之、千秋上急變訟太子冤曰「子弄父兵、罪當笞。天子之子過誤殺人、當何罪哉!臣嘗夢見一白頭翁教臣言」是時、上頗知太子惶恐無他意、乃大感寤、召見千秋。至前、千秋長八尺餘、體貌甚麗、武帝見而說之、謂曰「父子之間、人所難言也、公獨明其不然。此高廟神靈使公教我、公當遂為吾輔佐」立拜千秋為大鴻臚。數月、遂代劉屈氂為丞相、封富民侯。
(『漢書』車千秋伝)

あの丞相田千秋(車千秋)が武帝に見出されたのもそれに関係している。
田千秋は、皇太子の反乱は子供が父親の武器を持ち出したようなものだ、という論調で皇太子を弁護したのである。
武帝は高祖劉邦の神霊が自分に教えてくれたのだと解釈し、皇太子の名誉回復を行うと同時に田千秋を宰相に引き上げたのであった。

ただし「巫蠱」事件の調査、処罰はその後も継続しており、丞相劉屈氂もそれに連座して処刑されている。
沈静化は責任者となった田千秋の消極姿勢と武帝の死による集結のお陰のようである。


なお、武帝の皇太子をめぐる心境の変化により、もう一つの重大事件を誘発している。

初、莽何羅與江充相善、及充敗衛太子、何羅弟通用誅太子時力戰得封。後上知太子冤、乃夷滅充宗族黨與。何羅兄弟懼及、遂謀為逆。
(『漢書』金日磾伝)

馬何羅、馬通は江充と仲が良く、また皇太子の乱において皇太子を討って功を立てていた。
皇太子が名誉回復し江充が有罪とされた現状では、馬何羅兄弟は針のムシロであったため、武帝の暗殺という凶行を計画したというのだ。
この件は金日磾により辛くも食い止められたが、最高権力者の心変わりというのは色々な方面に波及し意外な影響をもたらすものだ、ということなのだろう。


征和年間は武帝時代の斜陽を印象付け、良くも悪くも旧時代の人間が消えて次の時代へと刷新された時期だったと言えるかもしれない。