『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180124/1516720892)の続き。




四年春正月丁亥、帝加元服、見于高廟。賜諸侯王・丞相・大將軍・列侯・宗室下至吏民金帛牛酒各有差。賜中二千石以下及天下民爵。毋收四年・五年口賦。三年以前逋更賦未入者、皆勿收。令天下酺五日。
甲戌、丞相(田)千秋薨。
夏四月、詔曰「度遼將軍(范)明友前以羌騎校尉將羌王侯君長以下撃益州反虜、後復率撃武都反氐、今破烏桓、斬虜獲生、有功。其封明友為平陵侯。平樂監傅介子持節使、誅斬樓蘭王安、歸首縣北闕、封義陽侯。」
五月丁丑、孝文廟正殿火、上及羣臣皆素服。發中二千石將五校作治、六日成。太常及廟令丞郎吏皆劾大不敬、會赦、太常轑陽侯徳免為庶人。
六月、赦天下。
(『漢書』巻七、昭帝紀

范明友と傅介子が列侯となった。


范明友は既に出てきているように益州・武都を転戦、さらに烏丸を討っており、南へ北へと忙しかった将。


(傅)介子謂大將軍霍光曰「樓蘭・龜茲數反覆而不誅、無所懲艾。介子過龜茲時、其王近就人、易得也。願往刺之、以威示諸國。」大將軍曰「龜茲道遠、且驗之於樓蘭。」於是白遣之。
(『漢書』巻七十、傅介子伝)


傅介子は楼蘭王を騙し討ちで殺して戻ってきた暗殺者である。前漢の対西域政策は血と汗によって形づくられている。





文帝廟で火災が発生したということで、皇帝も臣下も喪服を着るとともに、皇帝の直属軍をも使って急ピッチで復旧した。

先祖の廟をおろそかにしたということになれば、皇帝が親不孝という当時の大罪に当たるわけであるから当然とも言える。


更に、皇帝廟の管理者である廟令とその所管大臣である太常が罪に問われた。「大不敬」はかなりの重罪になりうる罪状だったようだ。



太常の江徳は列侯の地位を剥奪されたかのように書かれているが、実は『漢書』景武昭宣元成功臣表には次の代の轑陽侯が記載されているので、ここは何らかの混乱があるのかもしれない。


もしかすると「列侯を剥奪されそうだったが、ちょうど恩赦があったので剥奪されなかった」ということなのかもしれない。