さかのぼり前漢情勢21

楽しみにしてる人とかいるんだかいないんだかhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100226/1267110114の続き。


物凄く長い武帝の治世を元号ごとに分けて解説してみる。
まず、武帝最後の元号である後元。

おそらくだが、この「後元」はもともと元号ではなく、改元はしたが元号が決まっていない状態を「後の元年」と称していただけなのではないかと思われる。
なにしろ、武帝は後元二年二月には死亡するので、この改元に対して元号が決められていなかった可能性は高いだろう。

この短い間には御史大夫が皇帝廟の中で泥酔して歌を歌ったという失態を理由に自殺したり、金日磾らが功を立てたとされている馬通・馬何羅の武帝暗殺未遂事件があったりしている。

武帝は七十歳過ぎの老人であり、しかも皇太子や皇后の反乱と死という大事件を経ている。
もはや積極的に動くという状況ではなかったかもしれない。


そして二年目の二月。

二月、行幸盩厔五柞宮。乙丑、立皇子弗陵為皇太子。丁卯、帝崩于五柞宮。
(『漢書武帝紀、後元二年)

武帝長安城内ではなく、離宮に居たこと、そして武帝崩御が皇太子を立てて二日後であることに注目。

つまり、二月初めの段階ではまだ離宮に移動できるだけの健康状態だったが、離宮に入ってから容態が急変し、急いで皇太子を立ててから死んだということだ。

高齢でいつこのような事態になっても不思議ではなかったとはいえ、大臣や諸侯王、下々の民にいたるまで、武帝の死は不意打ちに突如訪れたのである。


既に述べてきたような新皇帝の兄である燕王の疑いの目、霍光らの疑惑は、この不意打ちの死に端を発すると言える。


もう一つ、後元年間に起こったことでその後の政治情勢に影響をもたらしたことがある。

昌邑王髆薨。
(『漢書武帝紀、後元元年)

あの二十七日皇帝劉賀の父である。
劉賀を成していることから推測すると昌邑王髆はこの時点で二十歳は超えていたことと思われる。
更に、昌邑王髆の母は武帝が特に寵愛した李夫人(李広利の妹)である。
李広利ら李氏は既に滅んでいたが、仮に武帝臨終時に健在であれば八歳の幼児よりも皇太子に立てられた可能性は高かったのではないだろうか。
(ただし、李広利らが武帝を呪詛し昌邑王髆を皇帝にしようとした、という事件があったため、武帝が嫌った可能性も否定できない)

だが実際には武帝に先立って死去したため、後継者選びはますます不穏な空気を増した。

及衛太子敗、齊懷王又薨、旦自以次第當立、上書求入宿衛。上怒、下其使獄。後坐臧匿亡命、削良鄉・安次・文安三縣。武帝由是惡旦、後遂立少子為太子。
(『漢書』燕剌王劉旦伝)

昭帝や昌邑王髆の兄である燕王旦は能力には優れていたが野心家で、戻太子の乱後は後継者の座を狙って逆に武帝の勘気に触れていた。

燕王の弟の廣陵王胥は「動作無法度、故終不得為漢嗣」と記される人物で、どうも後継者としては敬遠されていたようである。


つまり昌邑王髆が消えたことで、後継者の資格がある者は年長で実力がある野心家の燕王、乱暴者の廣陵王、そして幼児の皇子弗陵のみとなった。
どれも問題点のある人物であり、誰を選んでも角が立ちそうである。
燕王が後継者となれば、武帝時代に自分の処分を決めた大臣や武帝の側近は軒並み粛清されるだろう。
年少者が立てば、どちらになっても燕王が黙っているわけが無い。


結果、幼児が選ばれたのは既に見てきたとおりだが、霍光らに大司馬大将軍や車騎将軍といった将軍の位が与えられたのは、不穏な動きをすることが目に見えていた燕王を抑え、あるいは討伐するためなのだろう。


どこまでが武帝本人の意思だったのかという疑問も残るが、詮索しても解答は得られるはずが無いので今はやめておこう。


武帝の死は突然だったということ、後継者争いは問題山積みのまま新たな局面を迎えざるを得なかったこと、この二点が昭帝時代に色々と影響したと思われるのである。