『漢書』武帝紀を読んでみよう:その33

その32(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180110/1515510296)の続き。




二年春正月、朝諸侯王于甘泉宮、賜宗室。
二月、行幸盩厔五柞宮。
乙丑、立皇子弗陵為皇太子。
丁卯、帝崩于五柞宮、入殯于未央宮前殿。
三月甲申、葬茂陵。
贊曰、漢承百王之弊、高祖撥亂反正、文景務在養民、至于稽古禮文之事、猶多闕焉。孝武初立、卓然罷黜百家、表章六經。遂疇咨海内、舉其俊茂、與之立功。興太學、修郊祀、改正朔、定暦數、協音律、作詩樂、建封襢、禮百神、紹周後、號令文章、煥焉可述。後嗣得遵洪業、而有三代之風。如武帝之雄材大略、不改文景之恭儉以濟斯民、雖詩書所稱何有加焉!
(『漢書』巻六、武帝紀)

後元2年。前回も書いたように、この年も「後2年」と表記した方がいいのかもしれないが。




武帝は甘泉宮から五柞宮と離宮をハシゴ。



そして、五柞宮で皇太子を定め、その2日後に死去。



このタイミングは、死期を悟り最後の力を振り絞って皇太子を定めたか、あるいは皇太子を定めるまでは「今はもう動かないこの武帝」に生きていてもらったのか、どちらかなのだろう。




孝昭皇帝、武帝少子也。母曰趙祜礱、本以有奇異得幸、及生帝、亦奇異。語在外戚傳。
武帝末、戻太子敗、燕王旦・廣陵王胥行驕嫚、後元二年二月上疾病、遂立昭帝為太子、年八歳。
(『漢書』巻七、昭帝紀

そして皇太子に選ばれたのは皇子弗陵。この時8歳。





末子、幼帝、崩御2日前。何も起こらないはずがなく・・・。





帝紀の回があれば続く。