『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その1

ちょっと前まで『漢書』昭帝紀を見てきたので、もうこうなったらついでに『漢書』宣帝紀も同じように見ていこうじゃないか。



中国の皇帝の中でもかなり特異な生い立ちを歩んだ皇帝といえば宣帝だが、そんな派手目な側面以外も見えてくるかもしれないし。




孝宣皇帝、武帝曾孫、戻太子孫也。太子納史良娣、生史皇孫。皇孫納王夫人、生宣帝、號曰皇曾孫。
生數月、遭巫蠱事、太子・良娣・皇孫・王夫人皆遇害。語在太子傳。
曾孫雖在襁緥、猶坐收繫郡邸獄。而邴吉為廷尉監、治巫蠱於郡邸、憐曾孫之亡辜、使女徒復作淮陽趙徴卿・渭城胡組更乳養、私給衣食、視遇甚有恩。
(『漢書』巻八、宣帝紀

前回の昭帝の死の続きに行く前に、まず宣帝の生い立ちが語られる。


初、太子有三男一女、女者平輿侯嗣子尚焉。及太子敗、皆同時遇害。衛后・史良娣葬長安城南。史皇孫・皇孫妃王夫人及皇女孫葬廣明。皇孫二人隨太子者、與太子并葬湖。
(『漢書』巻六十三、戻太子拠伝)


宣帝は武帝の曽孫。あの反乱を起こした皇太子、戻太子(衛太子)の孫である。




皇太子の妻妾は「妃、良娣、孺子」の3つの位に分かれていたという。妃というのは正妻であるので、良娣はその次の地位ではあるが側室である。



その皇太子の側室史氏が産んだ男子が「史皇孫」と呼ばれる劉進。



史皇孫の母の王氏はどういう立場だったか詳しく分からないが、正妻ではなかった。「皇孫妃」が別にいた事が記録にある。王氏は人買いのような仲介業者を通じて歌や踊りなどを仕込まれて連れてこられた女性なのだ。




つまり、宣帝は皇太子の孫ではあるが、おそらく皇太子の庶子の一人で(史皇孫の兄弟順や嫡子が別にいたかどうか不明ではあるが)、更にそのまた庶子であった、ということである。




皇太子の起こした事件からすれば生き延びただけでも幸運なのだが、庶子庶子という微妙そうな立場から皇帝になったというのは、もはや幸運だけでは説明がつかないレベルかもしれない。





赤子でありながら牢獄に入れられた後の宣帝劉病已は、そこで邴吉(丙吉)という人物に出会う。



この丙吉という人物はこの皇太子事件の取り調べを命じられた高級官僚であったが、赤子劉病已を哀れに思って、乳が出る女囚を乳母にしてやった。


後元二年、武帝疾、往來長楊・五柞宮、望氣者言長安獄中有天子氣、於是上遣使者分條中都官詔獄繫者、亡輕重一切皆殺之。内謁者令郭穰夜到郡邸獄、(丙)吉閉門拒使者不納、曰「皇曾孫在。他人亡辜死者猶不可、況親曾孫乎!」相守至天明不得入、穰還以聞、因劾奏吉。武帝亦寤曰「天使之也。」因赦天下。
郡邸獄繫者獨頼吉得生、恩及四海矣。
曾孫病、幾不全者數焉、吉數敕保養乳母加致醫藥、視遇甚有恩惠、以私財物給其衣食。
(『漢書』巻七十四、丙吉伝)


更に、武帝が「長安の獄中に天子になる者がいる」と宣った能力者*1の言葉を信じて罪人皆殺しを図った際には、自分の管轄する獄へ鏖殺命令を届けた皇帝の使者に歯向かって命令を受け入れず(武帝が心変わりしていなかったら丙吉は極刑であっただろう)、劉病已以下獄中の人間を救った、ということである。





まだ本人は赤子なのに既に濃いエピソード満載の宣帝紀は本題に入らないまま次回へ続く。




*1:完全に言い当てたわけだからかなりの能力者である。