『漢書』宣帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180209/1518102114)の続き。





本始元年春正月、募郡國吏民訾百萬以上徙平陵。
遣使者持節詔郡國二千石謹牧養民而風徳化。
大將軍光稽首歸政、上謙讓委任焉。論定策功、益封大將軍光萬七千戸、車騎將軍光祿勳富平侯安世萬戸。
詔曰「故丞相安平侯敞等居位守職、與大將軍光・車騎將軍安世建議定策、以安宗廟、功賞未加而薨。其益封敞嗣子忠及丞相陽平侯義・度遼將軍平陵侯明友・前將軍龍雒侯筯・太僕建平侯延年・太常蒲侯昌・諫大夫宜春侯譚・當塗侯平・杜侯屠耆堂・長信少府關内侯勝邑戸各有差。封御史大夫廣明為昌水侯、後將軍充國為營平侯、大司農延年為陽城侯、少府樂成為爰氏侯、光祿大夫遷為平丘侯。賜右扶風徳・典屬國武・廷尉光・宗正徳・大鴻臚賢・袪事畸・光祿大夫吉・京輔都尉廣漢爵皆關内侯。徳・武食邑。」
夏四月庚午、地震
詔内郡國舉文學高第各一人。
五月、鳳皇集膠東・千乗。赦天下。賜吏二千石・諸侯相・下至中都官・宦吏・六百石爵、各有差、自左更至五大夫。賜天下人爵各一級、孝者二級、女子百戸牛酒。租税勿收。
六月、詔曰「故皇太子在湖、未有號諡。歳時祠、其議諡、置園邑。」語在太子傳。
秋七月、詔立燕剌王太子建為廣陽王、立廣陵王胥少子弘為高密王。
(『漢書』巻八、宣帝紀


本始元年。




平陵とは昭帝の陵墓及びその近傍に作られた集落の事。



(霍)光自後元秉持萬機、及上即位、乃歸政。上謙讓不受、諸事皆先關白光、然後奏御天子。
(『漢書』巻六十八、霍光伝)

霍光はここで宣帝に国政の大権を返上しようとしたが、宣帝はそれを受け入れず、何事も霍光を通してから決める事とした。


これが「関白」の由来とされる。




霍光、張安世をはじめとする当時の大臣たちが加増や封侯などの恩賞を受ける。



杜延年・夏侯勝・田広明・趙充国・蘇武・韋賢・丙吉・趙広漢といった、濃いエピソードの持ち主ばかり集まっている。



太子有遺孫一人、史皇孫子、王夫人男、年十八即尊位、是為孝宣帝。
帝初即位、下詔曰「故皇太子在湖、未有號諡、歳時祠、其議諡、置園邑。」
有司奏請「禮『為人後者、為之子也』、故降其父母不得祭、尊祖之義也。陛下為孝昭帝後、承祖宗之祀、制禮不踰閑。謹行視孝昭帝所為故皇太子起位在湖、史良娣冢在博望苑北、親史皇孫位在廣明郭北。諡法曰『諡者、行之迹也』、愚以為親諡宜曰悼、母曰悼后、比諸侯王園、置奉邑三百家。故皇太子諡曰戻、置奉邑二百家。史良娣曰戻夫人、置守冢三十家。園置長丞、周衛奉守如法。」以湖閿郷邪里聚為戻園、長安白亭東為戻后園、廣明成郷為悼園。皆改葬焉。
(『漢書』巻六十三、戻太子拠伝)


「元の皇太子が湖にいる」というのは、「皇太子が湖底に沈んでいて誰かにサルベージされるのを待っている」という意味ではなく、皇太子が死んで葬られた場所が「湖県」という県であった、という事を意味している。




かつての皇太子劉拠には「戻」、その子である史皇孫には「悼」という諡号が贈られた。



「戻」は諡号としてあまり良い内容ではないらしい。ある程度の名誉回復はなされたが、反乱を起こして多数の犠牲者を出したという事は免責されていない、というところなのだろう。





燕剌王というのは昭帝の時の謀反事件の中心人物である燕王劉旦の事。国が「お取り潰し」になっていたが、ここで子供による事実上の再興を許された、という事である。



新皇帝の度量と恩沢を示すと共に、武帝直系子孫たちに対する「ガス抜き」といったところだろうか。