『漢書』武帝紀を読んでみよう:その32

その31(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180108/1515337818)の続き。




後元元年春正月、行幸甘泉、郊泰畤、遂幸安定。
昌邑王髆薨。
二月、詔曰「朕郊見上帝、巡于北邊、見羣鶴留止、以不羅罔、靡所獲獻。薦于泰畤、光景並見。其赦天下。」
夏六月、御史大夫商丘成有罪自殺。
侍中僕射莽何羅與弟重合侯通謀反、侍中駙馬都尉金日磾・奉車都尉霍光・騎都尉上官桀討之。
秋七月、地震、往往湧泉出。
(『漢書』巻六、武帝紀)

後元元年。



「後元元年」とは書いたが、実は『漢書』ではしばしばこの年の事を「後元年」と表記している。



おそらくはこの「後元」というのはそういった元号ということではなく、元号を定めないまま武帝がいなくなってしまい、「後元年」と呼称するしかなかったという事なのではなかろうか。




昌邑王、死亡。外戚の李広利が降伏、その家族は処刑された中での話なので、少々キナ臭い。




ただ、これで武帝の後継者をどうするかという問題は一層混迷することとなった。



馬援字文淵、扶風茂陵人也。其先趙奢為趙將、號曰馬服君、子孫因為氏。
武帝時、以吏二千石自邯鄲徙焉。
曾祖父通、以功封重合侯、坐兄何羅反、被誅、故援再世不顯。
(『後漢書』列伝第十四、馬援伝)


武帝の命を危うくした馬通・馬何羅兄弟というのは、後漢の馬援の先祖(正確には馬通が先祖)だという。



ここで姓を「莽」と書いているのは、馬援の娘である明帝の馬皇后に対し班固が配慮したものだと言われている。


初、莽何羅與江充相善、及充敗衛太子、何羅弟通用誅太子時力戰得封。後上知太子冤、乃夷滅充宗族黨與。何羅兄弟懼及、遂謀為逆。
(金)日磾視其志意有非常、心疑之、陰獨察其動靜、與倶上下。何羅亦覺日磾意、以故久不得發。
是時上行幸林光宮、日磾小疾臥廬。何羅與通及小弟安成矯制夜出、共殺使者、發兵。明旦、上未起、何羅亡何從外入。日磾奏廁心動、立入坐内戸下。須臾、何羅褏白刃從東箱上、見日磾、色變、走趨臥内欲入、行觸寶瑟、僵。日磾得抱何羅、因傳曰「莽何羅反!」上驚起、左右拔刃欲格之、上恐并中日磾、止勿格。日磾捽胡投何羅殿下、得禽縛之、窮治皆伏辜。繇是著忠孝節。
(『漢書』巻六十八、金日磾伝)


この馬何羅らの乱は、馬何羅が侍中という皇帝の側仕えであったことからもわかるように、武帝のすぐそばで発生した、武帝を直接狙ったものであった。



それを阻止した立役者は同じ侍中、匈奴出身の金日磾であった。



上官桀は馬通を捕えたという。霍光は何をやったのはあまりはっきりしないが、武帝の側近であったことは確かなので、武帝のすぐそばで起こった反乱の阻止に何らかの功績があっても不思議ではない。