『漢書』武帝紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171126/1511622657)の続き。




三年春、河水溢于平原、大飢、人相食。
賜徙茂陵者戸錢二十萬、田二頃。
初作便門橋。
秋七月、有星孛于西北。
濟川王明坐殺太傅・中傅廢遷防陵。
閩越圍東甌、東甌告急。遣中大夫嚴助持節發會稽兵、浮海救之。未至、閩越走、兵還。
九月丙子晦、日有蝕之。
四年夏、有風赤如血。
六月、旱。
秋九月、有星孛于東北。
(『漢書』巻六、武帝紀)

建元3年。



前回説明しなかったが、「茂陵」というのは武帝が死後葬られる予定の皇帝陵である。景帝の時と同じである。そして前漢の皇帝陵は陵墓だけではなく、集落まで作る(高級官僚の家などが移住することになっていた)のが通常だったので、「茂陵」の集落にも人が集められていた。その新住人への賜与ということである。


濟川王明以垣邑侯立。七年、坐射殺其中尉、有司請誅、武帝弗忍、廢為庶人、徙房陵、國除。
(『漢書』巻四十七、梁孝王武伝)

済川王というのは梁孝王劉武(景帝の弟)の子の一人だから、武帝の従兄弟に当たる。


列伝では中尉を射殺、本紀では太傅らを殺害と証言が一致しないが、ともかく重臣を殺した罪があったのだろう。



「防陵」とは「房陵」のこと。漢中にあって孤立気味の場所であり、しばしば流刑地として使われたという。




閩粵王無諸及粵東海王搖、其先皆粵王句踐之後也、姓騶氏。秦并天下、廢為君長、以其地為閩中郡。
及諸侯畔秦、無諸・搖率粵歸番陽令呉芮、所謂番君者也、從諸侯滅秦。
當是時、項羽主命、不王也、以故不佐楚。漢撃項籍、無諸・搖帥粵人佐漢。
漢五年、復立無諸為閩粵王、王閩中故地、都冶。
孝惠三年、舉高帝時粵功、曰閩君搖功多、其民便附、乃立搖為東海王、都東甌、世號曰東甌王。
后數世、孝景三年、呉王濞反、欲從閩粵、閩粵未肯行、獨東甌從。及呉破、東甌受漢購、殺呉王丹徒、以故得不誅。
呉王子駒亡走閩粵、怨東甌殺其父、常勸閩粵撃東甌。
建元三年、閩粵發兵圍東甌、東甌使人告急天子。天子問太尉田蚡、蚡對曰「粵人相攻撃、固其常、不足以煩中國往救也。」中大夫嚴助詰蚡、言當救。天子遣助發會稽郡兵浮海救之、語具在助傳。漢兵未至、閩粵引兵去。
東甌請舉國徙中國、乃悉與衆處江淮之間。
(『漢書』巻九十五、閩粵伝)

閩越(粵)と東甌は越王句踐の後裔だといい、漢からそれぞれ王として認められていたが、あの呉楚七国の乱の際に閩越は隣国呉に従わず、東甌は呉に従った。



しかし呉が敗れると東甌は呉王の首を漢に献上して漢に許され、逆に閩越は呉王の子の亡命を受け入れたため、閩越と東甌の関係が悪化していたのである。



この建元3年に東甌が閩越に攻められると武帝は反対を押し切って東甌救援に動き、最終的に東甌は長江と淮水の流域に移住することになったという*1




これがまだまだ後まで続く武帝と越の関わりの第一章である。

*1:三国時代の「山越」の源流の一つがこの時移住した東甌の越族なのだろう。たぶん。