『漢書』武帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171127/1511709644)の続き。




五年春、罷三銖錢、行半両錢。
置五經博士。
夏四月、平原君薨。
五月、大蝗。
秋八月、廣川王越・清河王乗皆薨。
六年春二月乙未、遼東高廟災。夏四月壬子、高園便殿火。上素服五日。
五月丁亥、太皇太后崩。
秋八月、有星孛于東方、長竟天。
閩越王郢攻南越。遣大行王恢將兵出豫章、大司農韓安國出會稽、撃之。未至、越人殺郢降、兵還。
(『漢書』巻六、武帝紀)

建元の残り。



平原君とは武帝の母である王氏の母。富貴な身分になるという占いを信じ、既に結婚して子どももいた武帝の母を夫から奪って後宮に入れたというぐう畜である。




そして建元6年になって太皇太后が死去。以前に武帝儒者たちによる政治に待ったをかけた張本人である。



つまり、武帝の親政にとって最も邪魔になっていた人物が消えたということである。





閩越、今度は南越へ侵攻。

六年、閩粵撃南粵、南粵守天子約、不敢擅發兵而以聞。
上遣大行王恢出豫章、大司農韓安國出會稽、皆為將軍。
兵未隃領、閩粵王郢發兵距險。其弟餘善與宗族謀曰「王以擅發兵、不請、故天子兵來誅。漢兵衆強、即幸勝之、後來益多、滅國乃止。今殺王以謝天子、天子罷兵、固國完。不聽乃力戰、不勝即亡入海。」皆曰「善。」
即鏦殺王、使使奉其頭致大行。大行曰「所為來者、誅王。王頭至、不戰而殞、利莫大焉。」乃以便宜案兵告大司農軍、而使使奉王頭馳報天子。詔罷両將軍兵曰「郢等首惡、獨無諸孫繇君丑不與謀。」乃使郎中將立丑為粵繇王、奉閩粵祭祀。
(『漢書』巻九十五、閩粵伝)


閩越は王を殺して降伏するという道を選び、漢が新たに王を立てることとなった。



この時は南越が全面的に漢の側に立っていた事も注目すべきかもしれない。




これがまだまだ後まで続く武帝と越の関わりの第二章である。