『漢書』武帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171125/1511536893)の続き。




二年冬十月、御史大夫趙綰坐請毋奏事太皇太后、及郎中令王臧皆下獄、自殺。
丞相嬰・太尉蚡免。
春二月丙戌朔、日有蝕之。
夏四月戊申、有如日夜出。
初置茂陵邑。
(『漢書』巻六、武帝紀)

建元2年。



元年の時には書かないでいたが中国史上初めてと言っていい「元号」である。詳しい事はいずれ出てくるだろう。




武帝の政策を進めようとしていた儒者の趙綰・王臧が失脚して死んだ。



太皇太后竇氏への上奏を止めることにしようとしたことが原因だという。つまり、武帝が完全にフリーハンドで政治を行うために太皇太后にお伺いを立てるというステップを省こうとし、逆襲されたのだ。




この時の武帝太皇太后が摂政になっていたわけではないはずだが、かといって政治の場から完全にハブることも許されなかったようだ。


(竇)嬰・(田)蚡倶好儒術、推轂趙綰為御史大夫、王臧為郎中令、迎魯申公、欲設明堂、令列侯就國、除關、以禮為服制、以興太平。舉讁諸竇宗室無行者、除其屬藉。
諸外家為列侯、列侯多尚公主、皆不欲就國、以故毀日至竇太后
太后好黄老言、而嬰・蚡・趙綰等務隆推儒術、貶道家言、是以竇太后滋不説。
二年、御史大夫趙綰請毋奏事東宮。竇太后大怒曰「此欲復為新垣平邪!」乃罷逐趙綰・王臧、而免丞相嬰・太尉蚡、以柏至侯許昌為丞相、武彊侯莊青翟為御史大夫
嬰・蚡以侯家居。
(『漢書』巻五十二、田蚡伝)


これにより太皇太后の縁者でもあった丞相竇嬰、武帝の母の異父弟太尉田蚡も同時に失脚した。



そして上記列伝によれば、太皇太后が黄老を好み儒家を好まなかったことと、都から領国に行かされそうになったことで外戚や公主、列侯といった貴人たちの反発を招いていたことが失脚の背景にあったという。





ともあれ、武帝の最初の政治体制は完全に瓦解したのである。



ただ、この即位直後の段階で既に儒者を中心に据えた新たな政治を志していた事は注目してもいいのではないかと思う。