『漢書』恵帝紀を読んでみよう:その3

その2(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170904/1504451125)の続き。



三年春、發長安百里内男女十四萬六千人城長安、三十日罷。
以宗室女為公主、嫁匈奴單于。
夏五月、立閩越君搖為東海王。
六月、發諸侯王・列侯徒隸二萬人城長安
秋七月、都廐災。
南越王趙佗稱臣奉貢。
四年冬十月壬寅、立皇后張氏。
春正月、舉民孝弟力田者復其身。
三月甲子、皇帝冠、赦天下。
省法令妨吏民者、除挾書律。
長樂宮鴻臺災。
宜陽雨血。
秋七月乙亥、未央宮凌室災。丙子、織室災。
(『漢書』巻二、恵帝紀

恵帝3年、4年は、まず「城長安」つまり長安の街に城壁を作ったことが目を引く。



春は民を、夏には諸侯王や列侯の隷民を徴発し、負担を分散すると共に諸侯に負担を強いている。勢力を少しでも削減しようという意図もあったのかもしれない。




また匈奴単于に公主すなわち皇帝の娘(ということにした宗室の女性)を嫁にやるという、講和とも服従とも言える措置を取ったことが分かる。




更に、書物の私蔵を禁じたという秦の法を撤廃するなど、人々の害となっていた法令を廃止、改正したという。




このように、恵帝治世のこの時期は漢王朝の基礎固めという点では割と重要な施策や決定がなされているようだ。




三年、方築長安城、四年就半。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

史記』ではこの二年分についての本紀での記事は以上である。



史記』呂太后本紀としてはこの時期は長安の城壁を作った事が最大の重要事項と考えたのだろうか。




このあたり、『史記』と『漢書』の違いが特に顕著と言えるだろう。