『漢書』恵帝紀を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170903/1504365383)の続き。


二年冬十月、齊悼惠王來朝、獻城陽郡以益魯元公主邑、尊公主為太后
春正月癸酉、有両龍見蘭陵家人井中、乙亥夕而不見。隴西地震
夏旱。
郃陽侯仲薨。
秋七月辛未、相國何薨。
(『漢書』巻二、恵帝紀

恵帝2年の大きなイベントというと、斉王(恵帝の兄)が恵帝のお蔭で毒殺の危機を逃れ、斉の一部を献上して呂后と手打ちにする、というものがあるが、『漢書』恵帝紀ではそのあたりは簡略である。



もちろん他の箇所(斉悼恵王肥伝)に載っているから本紀は結果のみを記す、ということだろう。



なお死去した郃陽侯仲というのは劉邦の兄で呉王濞の父。相国何というのは分かる人も多いだろうが蕭何のこと。




二年、楚元王・齊悼惠王皆來朝。
十月、孝惠與齊王燕飲太后前、孝惠以為齊王兄、置上坐、如家人之禮。太后怒、迺令酌兩卮酖、置前、令齊王起為壽。齊王起、孝惠亦起、取卮欲俱為壽。太后迺恐、自起泛孝惠卮。齊王怪之、因不敢飲、詳醉去。問、知其酖、齊王恐、自以為不得脱長安、憂。齊内史士説王曰「太后獨有孝惠與魯元公主。今王有七十餘城、而公主迺食數城。王誠以一郡上太后、為公主湯沐邑、太后必喜、王必無憂。」於是齊王迺上城陽之郡、尊公主為王太后呂后喜、許之。迺置酒齊邸、樂飲、罷、歸齊王。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

史記』の方ではその斉王事件が詳細に記されている一方、相国蕭何の死などは記されない。



史記』は『史記』でそういった事は「表」や蕭何の「世家」を読めばよい、というスタンスなのかもしれない。