『漢書』景帝紀を読んでみよう:その1

ちょっと前まで『漢書』文帝紀を見てきたので、もうこうなったらついでに『漢書』景帝紀も同じように見ていこうじゃないか。



親戚を自ら殴り殺した経験がある皇帝といえば景帝だが、そんなパワータイプな側面以外も見えてくるかもしれないし。




孝景皇帝、文帝太子也。母曰竇皇后。
後七年六月、文帝崩。
丁未、太子即皇帝位、尊皇太后薄氏曰太皇太后、皇后曰皇太后
九月、有星孛于西方。
元年冬十月、詔曰「蓋聞古者祖有功而宗有徳、制禮樂各有由。歌者、所以發徳也。舞者、所以明功也。高廟酎、奏武徳・文始・五行之舞。孝惠廟酎、奏文始・五行之舞。孝文皇帝臨天下、通關梁、不異遠方。除誹謗、去肉刑、賞賜長老、收恤孤獨、以遂羣生。減耆欲、不受獻、罪人不帑、不誅亡罪、不私其利也。除宮刑、出美人、重絶人之世也。朕既不敏、弗能勝識。此皆上世之所不及、而孝文皇帝親行之。徳厚祈天地、利澤施四海、靡不獲福。明象乎日月、而廟樂不稱、朕甚懼焉。其為孝文皇帝廟為昭徳之舞、以明休徳。然后祖宗之功徳、施于萬世、永永無窮、朕甚嘉之。其與丞相・列侯・中二千石・禮官具禮儀奏。」
丞相臣嘉等奏曰「陛下永思孝道、立昭徳之舞以明孝文皇帝之盛徳、皆臣嘉等愚所不及。臣謹議、世功莫大於高皇帝、徳莫盛於孝文皇帝。高皇帝廟宜為帝者太祖之廟、孝文皇帝廟宜為帝諸太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟。郡國諸侯宜各為孝文皇帝立太宗之廟。諸侯王列侯使者侍祠天子所獻祖宗之廟。請宣布天下。」
制曰「可」。
春正月、詔曰「間者歳比不登、民多乏食、夭絶天年、朕甚痛之。郡國或磽陿、無所農桑𣪠畜。或地饒廣、薦草莽、水泉利、而不得徙。其議民欲徙𥶡大地者、聽之。」
夏四月、赦天下。
賜民爵一級。
御史大夫(陶)青至代下與匈奴和親。
五月、令田半租。
秋七月、詔曰「吏受所監臨、以飲食免、重。受財物、賤買貴賣、論輕。廷尉與丞相更議著令。」
廷尉信謹與丞相議曰「吏及諸有秩受其官屬所監・所治・所行・所將、其與飲食計償費、勿論。它物、若買故賤、賣故貴、皆坐臧為盜、沒入臧縣官。吏遷徙免罷、受其故官屬所將監治送財物、奪爵為士伍、免之。無爵、罰金二斤、令沒入所受。有能捕告、畀其所受臧。」
(『漢書』巻五、景帝紀


景帝に限らないが、この時代、前の皇帝が死去して次の皇帝が立っても、その年は前の皇帝の年として記録されている。景帝が即位した年はあくまでも「文帝後7年」のままで、その翌年が「景帝元年」*1なのである。



文帝が死んだ時点では、まだ文帝の実母の薄氏は生きている。この場合、薄氏は「太皇太后」である。



文帝を「太宗」とするというのは『史記』孝文本紀の最後に記されていた記事である。




また、改めて匈奴と和親するため、副丞相とも言うべき御史大夫が自ら出向いている。


文帝の死からそれほど経っていないこの時期でのこの大きな動きは、おそらくは本当の危機が匈奴の反対側から起こりつつあったために匈奴を何としてでも大人しくさせておく必要があったからなのだろう。





最後の7月の詔もちょっと興味深い。



それまでは官吏が管轄している飲食物を自分で消費したことに対する罪が重く、飲食物以外を安く買い叩く、あるいは高く売りつけるなどしてその利益を懐に入れるような行為に対する罪が軽かったため、それを逆にした、ということらしい。



また、官吏が転勤や罷免に際して元の官において管轄していた財産を持って行った場合も罰を受けたという。




孝景皇帝者、孝文之中子也。母竇太后
孝文在代時、前后有三男、及竇太后得幸、前后死、及三子更死、故孝景得立。
元年四月乙卯、赦天下。
乙巳、賜民爵一級。
五月、除田半租。
為孝文立太宗廟。
令羣臣無朝賀。
匈奴入代、與約和親。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』孝景本紀では、文帝の廟についての事が孝文本紀で既に出ていたためにここでは書かれておらず、また官吏の汚職に関する法令の改正が記されていないため、かなり簡素である。




ただ一つだけ面白い違いがある。


この『史記』では「除田半租」と、「これまで普通に田租を取っていたところをこの年は半分にした」と思われる表現になっているが、『漢書』では文帝紀で「田租自体を廃止した」とされているため、「令田半租」は「それまで取っていなかった田租を元々の規定の半分だけ取ることにした」という意味になるのである*2



これについては『史記』と『漢書』で話が逆転しているようである。

*1:文帝と同様の理由で、景帝「前元年」と言うべきである。

*2:漢書』食貨志上でも「明年、遂除民田之租税。後十三歳、孝景二年、令民半出田租、三十而税一也。」と、やはり景帝になってから田租徴収を再開したとされている。