『漢書』景帝紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171103/1509634946)の続き。




四年春、復置諸關用傳出入。
夏四月己巳、立皇子榮為皇太子、徹為膠東王。
六月、赦天下、賜民爵一級。
秋七月、臨江王閼薨。
十月戊戌晦、日有蝕之。
五年春正月、作陽陵邑。
夏、募民徙陽陵、賜錢二十萬。
遣公主嫁匈奴單于。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝前4年、5年。乱の後。



「復置諸關用傳出入」というのは、文帝前12年に関所の「割符」所持を廃止していたが、ここでまた「割符」必須にした、ということである。



おそらくは、呉楚七国の乱の残党対策などのためなのだろう。




「陽陵」というのは景帝の皇帝陵のこと。漢の皇帝は生前から自分の皇帝陵を作るのが通例であった。つまり聖帝サウザーは漢の皇帝と同じスタイルだったということである。



漢は公主すなわち姫君を匈奴単于の妻として遣わしたとされるが、前後の事例などから考えるとこの「公主」もたぶん反乱した諸侯王の娘のような立場の者を「公主」ということにしたものであろう。




四年夏、立太子。立皇子徹為膠東王。
六月甲戌、赦天下。
後九月、更以易陽為陽陵。
復置津關、用傳出入。
冬、以趙國為邯鄲郡。
五年三月、作陽陵・渭橋。
五月、募徙陽陵、予錢二十萬。
江都大暴風從西方來、壞城十二丈。
丁卯、封長公主子蟜為隆慮侯。
徙廣川王為趙王。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』孝景本紀は一部収録内容に違いがある。



長公主の子というのは、文帝の娘(公主)が降嫁した堂邑侯陳午の子。陳午は陳嬰の孫に当たる。