『漢書』景帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171108/1510067285)の続き。




三年冬十一月、罷諸侯御史大夫官。
春正月、皇太后崩。
夏旱、禁酤酒。
秋九月、蝗。
有星孛于西北。
戊戌晦、日有蝕之。
立皇子乗為清河王。
四年春三月、起徳陽宮。
御史大夫綰奏禁馬高五尺九寸以上、齒未平、不得出關。
夏、蝗。
秋、赦徒作陽陵者。
死罪欲腐者許之。
十月戊午、日有蝕之。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝中3年、中4年。



御史大夫とは漢王朝でも諸侯王国でも副宰相的な立場とされる。諸侯王の御史大夫を廃止したというのは、小規模ながらも一つの国家であった諸侯王国が形骸化しつつあった(そして漢王朝がそのように仕向けた)事を示すのだろう。



また、「馬高五尺九寸以上、齒未平、不得出關」というのは、若く大きな馬の移動を禁じたというところか。多分、軍事に使うべき馬の流出を防ぐ意味合いだったのでは。




「死罪欲腐者許之」の「腐」とはいわゆる宮刑の事。死罪の代わりに宮刑を受け、局部と引き換えに命は助かる事を許したのである。




中三年冬、罷諸侯御史中丞。
春、匈奴王二人率其徒來降、皆封為列侯。
立皇子方乗為清河王。
三月、彗星出西北。
丞相周亞夫免、以御史大夫桃侯劉舍為丞相。
四月、地動。
九月戊戌晦、日食。
軍東都門外。
中四年三月、置徳陽宮。
大蝗。
秋、赦徒作陽陵者。
(『史記』巻十一、孝景本紀)


史記』の方では同じようで細部が違っていたりもする。



其後匈奴王唯徐盧等五人降、景帝欲侯之以勸後。丞相亞夫曰「彼背其主降陛下、陛下侯之、則何以責人臣不守節者乎?」景帝曰「丞相議不可用。」乃悉封唯徐盧等為列侯。亞夫因謝病。
景帝中三年、以病免相。
(『史記』巻五十七、絳侯周勃世家)


丞相周亜夫は、匈奴の貴人が漢に降伏してきた(景帝中3年)際に景帝が彼らに列侯の地位を与えて更なる降伏者を誘おうとしたことに反対し、景帝の不興を買って病気を称することとなり(実質的な辞任であろう)、それを理由に罷免された。


ちなみに周亜夫はその後罪を得て獄死している。呉楚七国の乱を鎮圧した司令官としては寂しい話である。