『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その22

その21の続き。


初、莽欲擅權、白太后「前哀帝立、背恩義、自貴外家丁・傅、撓亂國家、幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗、為成帝後、宜明一統之義、以戒前事、為後代法。」
於是遣甄豐奉璽綬、即拜帝母衛姫為中山孝王后、賜帝舅衛寶・寶弟玄爵關内侯、皆留中山不得至京師。
莽子宇、非莽隔絶衛氏、恐帝長大後見怨。宇即私遣人與寶等通書、教令帝母上書求入。語在衛后傳。莽不聽。
宇與師呉章及婦兄呂𥶡議其故、章以為莽不可諫、而好鬼神、可為變怪以驚懼之、章因推類説令歸政於衛氏。
宇即使𥶡夜持血灑莽第、門吏發覺之、莽執宇送獄、飲藥死。宇妻焉懷子、繫獄、須産子已、殺之。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


当初、王莽は権力を独占しようとして元后に進言した。「前に哀帝が即位すると、恩を忘れて外戚の丁氏と傅氏を高い地位に就けて王朝を乱し、社稷を危うくするところでした。今、皇帝は幼少の身から成帝の子として宗家を継ぐことになったので、血統は一つであるべきという秩序を明らかにし、前例を反面教師として後世の手本とするべきです」



そこで甄豊を遣わして平帝の母である衛姫を中山孝王(平帝の父)の后とし、平帝の伯父である衛宝・衛玄に関内侯の爵位を与えた上で、彼らを中山に留めて都長安には行かせなかった。



王莽の嫡子王宇は、父王莽が衛氏を平帝から引き離していることについて、平帝が成長した後に恨まれることになるのではないかと恐れた。そこで王宇は衛宝らと手紙を交わし、平帝の母衛氏に長安に行きたいと上奏させた。そのあたりは『漢書』中山衛姫伝を参照せよ。
だが王莽は聞き入れなかった。



そこで王宇は学問の師である呉章、妻の兄である呂寛とその理由について議論し、呉章は王莽を諌めることはできないが怪奇現象や神託は好んでいるので、超常現象を自作自演して王莽を驚かせ、呉章が類例を挙げて政治を衛氏に任せるよう勧めるよう言った。



王宇はそこで呂寛に王莽の屋敷に血をぶちまけさせたが、門番の役人がそれを見破ったため、王莽は王宇を獄に送り、王宇は服毒自殺した。王宇の妻はその時妊娠していたので、獄に入れて出産させてから殺害した。



王莽、息子を自殺させる(二人目)。




この時王莽が平帝の実母とその一族を国政に関与させなかったのは、哀帝の時の政治的混乱(というか元后や王莽が割を食ったこと)の反省によるものなので、それなりに妥当だったと言ってもいいだろう。



ただ、もう若くない王莽は平帝が成長しきる頃には寿命かもしれないが、まだ若い王宇は平帝が成長し自分で政治を視るようになった時もまだ健在である可能性が高い。言い換えると平帝の恨みを引き受けることになってしまうということだ。そう考えれば、王宇が平帝の恨みを恐れるのもまた妥当だったかもしれない。




また、平帝の実母衛姫を中山孝王の后にするというのは、衛姫は中山孝王の正妻ではなかったが、後付けで正妻扱いする、ということである。



莽長子宇非莽隔絶衛氏、恐久後受禍、即私與衛寶通書記、教衛后上書謝恩、因陳丁・傅舊惡、幾得至京師。
莽白太皇太后詔有司曰「・・・(中略)・・・夫襃義賞善、聖王之制、其以中山故安戸七千益中山后湯沐邑、加賜及中山王黄金各百斤、筯傅相以下秩。」
衛后日夜啼泣、思見帝、而但益戸邑。宇復教令上書求至京師。會事發覺、莽殺宇、盡誅衛氏支屬。
(『漢書』巻九十七下、皇后伝下、中山衛姫)


衛氏はどうやら「哀帝の母・祖母らのようにはならないから長安へ行き息子に会わせてほしい」といったことを願い出たようだが、王莽・元后はそれに対して褒賞によって気持ちを慰めるという対応に出たようだ。





言うまでもなく、王莽にとって後継ぎ(世子)である王宇が自分と全く違う方針を持ち、詐術さえ使って政治を左右しようとしていたというのは大スキャンダルである。


ではその後王莽はどうなるのか・・・それは次回。