『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その23

その22の続き。



莽奏言「宇為呂𥶡等所詿誤、流言惑衆、與管蔡同罪、臣不敢隠其誅。」
甄邯等白太后下詔曰「夫唐堯有丹朱、周文王有管蔡、此皆上聖亡奈下愚子何、以其性不可移也。公居周公之位、輔成王之主、而行管蔡之誅、不以親親害尊尊、朕甚嘉之。昔周公誅四國之後、大化乃成、至於刑錯。公其專意翼國、期於致平。」
莽因是誅滅衛氏、窮治呂𥶡之獄、連引郡國豪桀素非議己者、内及敬武公主・梁王立・紅陽侯立・平阿侯仁、使者迫守、皆自殺。死者以百數、海内震焉。
大司馬護軍襃奏言「安漢公遭子宇陷於管蔡之辜、子愛至深、為帝室故不敢顧私。惟宇遭辠、喟然憤發作書八篇、以戒子孫。宜班郡國、令學官以教授。」事下羣公、請令天下吏能誦公戒者、以著官簿、比孝經。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は「王宇は呂寛に騙されて流言を発し人々を惑わせました。これは(周の)管叔・蔡叔と同じです。私はその誅殺を隠しません」と上奏した。



甄邯らは元后に申し出てこのような詔を出させた。「堯には丹朱という不肖の息子がおり、周の文王には反乱した管叔・蔡叔がいた。これらはみな最上の聖人にも最下等の愚人は変わることがないためにどうしようもないというためである。安漢公は周公と同様の位にいて成王と同様の君主を助け、管叔・蔡叔と同様の誅罰を行い、(王宇が)近親だからといって尊い者の害になることはなかった。朕はそれを大変うれしく思う。昔、周公旦は四国を誅罰してから天下は大いに影響を受けて刑罰を行わずに済むまでに至った。安漢公は朝廷を助け、太平をもたらすことに専心せよ」



王莽はそこで平帝の母の一族衛氏を誅滅し、呂寛の事件を徹底追及させ、各地の豪傑らで前から自分に逆らっていた者たちを共犯者とした。元帝の妹の敬武公主、梁王立、王莽の叔父の紅陽侯王立、王莽の従兄弟の平阿侯王仁らにも及び、彼らに遣わされた使者が強く迫ったため、彼らはみな自殺した。死者は百人単位となったため、全国が震えた。



大司馬護軍が上奏した。「安漢公は我が子王宇が管叔・蔡叔と同様の罪に陥るという苦難に遭い、子を思う愛情はとても深いものでしたが、帝室のために私情を捨てましたが、王宇が罪に落ちたことを思い、発奮して八篇の書物を作り子孫のための戒めとしました。これを全国の郡・国に頒布し、それぞれの学問所で習わせるようにするべきです」



そのことは大臣で議論され、大臣たちは全国の官吏でこの王莽の訓戒を諳んじることが出来る者については、『孝経』を諳んじる者と同じように官吏名簿に特別な資格として載せるよう願い出た。



王莽たちは息子王宇らの罪で失脚するどころか、逆に気に入らない者をくっつけて一緒に葬ってしまうことに成功した。



敬武公主というのは成帝の姉妹であるから、成帝の子扱いである平帝にとっては叔母である。元の丞相薛宣と結婚していたが、哀帝時代は哀帝外戚丁・傅氏に接近し、また平帝になってからは薛宣の子が呂寛と仲が良かった(『漢書』薛宣伝)というから、基本的に王莽ら王氏とはあまり関係が良くなかったようだ。



梁王立は景帝の弟の梁王武の子孫で、何度も罪を犯していた不良の王。年長であったことと、良くも悪くも劉氏の中で存在感があったこと、何より危険な存在であったことから一緒に始末されたのだろうか。

そして、新末後漢初の群雄の一人、梁王劉永はこの梁王立の息子だそうだ。父が王莽に事実上殺されたことは、劉永にも何らかの影響を与えたのかもしれない。はっきりどうとは言えないが。


紅陽侯立莽諸父、平阿侯仁素剛直、莽内憚之、令大臣以罪過奏遣立・仁就國。莽日誑燿太后、言輔政致太平、羣臣奏請尊莽為安漢公。後遂遣使者迫守立・仁令自殺、賜立諡曰荒侯、子柱嗣、仁諡曰刺侯、子術嗣。是歳、元始三年也。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


もしかしたら前にも書いたかもしれないが、王莽は自分より世代が上の紅陽侯王立、剛直な性格の平阿侯王仁を憚っていたという。
また紅陽侯と平阿侯は元后の弟でありながら失脚して摂政の地位に就けずにいたので、彼らを飛び越えた王莽との関係が上手くいっていなかったことだろう。

王莽はこれによって格上・同格の厄介者を始末できたわけだ。


なお、紅陽侯の家からは光武帝らの友人で共に戦った王丹、その子王泓が出ている。王莽に対して含むところがあったのではないか、と考えたくなる。




またそれ以外にも、元三公の何武(王莽を大司馬に推挙しなかった人物)、渤海郡の鮑宣(後漢の鮑永の父)や、隴西の大族辛氏、後漢の彭寵の父彭宏などがこの時に一緒に罪を受けて死んでいるようだ。




ピンチをチャンスに変える!みたいなビジネス書とかにありそうな話が本当に起こったのである。



王莽は擁護することなく息子を始末することで批判を封じた上で、結局は自分のいいように司法を使ったのだろう*1


そのあたりの機敏さや抜け目の無さといったところは流石と言っていいのではなかろうか。





その上、「王宇が不良になったので、子孫はそうならないよう戒めの書を作った」という親としての責任を感じているのだかいないのだかわからない行動と、「その戒めの書を『孝経』と同じように扱おう」という部下(大司馬護軍は王莽の部下である。そのあたりは後日説明すると思う)の上奏もなかなかキテる。さりげなく王莽の著作を経書レベルだと規定している。






それにしても、「上知と下愚は移らず」*2という孔丘先生の大変有難いお言葉で免責される王莽さんという図はとても興味深い。
王宇はどうやっても改善できない下愚だから、上知である王莽さんが親でもどうしようもなかったんや!というわけだ。