『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その5

その4の続き。

哀帝祖母定陶傅太后・母丁姫在。高昌侯董宏上書言「春秋之義、母以子貴、丁姫宜上尊號。」莽與師丹共劾宏誤朝不道、語在丹傳。
後日、未央宮置酒、内者令為傅太后張幄、坐於太皇太后坐旁。莽案行、責内者令曰「定陶太后藩妾、何以得與至尊並!」徹去、更設坐。傅太后聞之、大怒、不肯會、重怨恚莽。
莽復乞骸骨、哀帝賜莽黄金五百斤、安車駟馬、罷就第。公卿大夫多稱之者、上乃加恩寵、置使家、中黄門十日一賜餐。下詔曰「新都侯莽憂勞國家、執義堅固、朕庶幾與為治。太皇太后詔莽就第、朕甚閔焉。其以黄郵聚戸三百五十益封莽、位特進、給事中、朝朔望見禮如三公、車駕乗緑車從。」
後二歳、傅太后・丁姫皆稱尊號。丞相朱博奏「莽前不廣尊尊之義、抑貶尊號、虧損孝道、當伏顯戮、幸蒙赦令、不宜有爵土、請免為庶人。」上曰「以莽與太皇太后有屬、勿免、遣就國。」
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


その頃、哀帝の実の祖母である定陶王の傅太后、実母である丁姫は健在だった。高昌侯董宏という者が「『春秋』に記される決まりとして、「母は子によって貴くなる」というものがあります。丁姫には高い位と称号を与えるべきです」と上奏したため、王莽は師丹と共に董宏のことを朝廷を誤りに陥れる者として弾劾した。そのあたりは『漢書』師丹伝を参照せよ。



後日、未央宮の宴会によいて、担当者の内者令が傅太后のための帳(とばり)を設置する際、太皇太后(元后)のすぐそばに席を置こうとした。王莽は内者令を「定陶太后藩王の妻妾でしかない。太皇太后という最も貴い身分の者と並べることなどできようか」と責めて別の場所に席を設けさせた。それを聞いた傅太后は怒って宴会に出ようとせず、王莽への恨みを増した。



王莽はまた辞職を願い出、哀帝は王莽に黄金五百金、座って乗れる馬車を下賜し、辞職を認めて自分の屋敷に下がらせた。大臣、官僚たちには王莽を称える者が多かったので、皇帝も恩寵を加え、使者を彼の家に置き、中黄門に十日に一度食事を贈らせ、「新都侯王莽は皇帝に対して長年の功労があり、義を固く守る人物であるので、朕も共に政治に携わることを願っていたので、太皇太后が王莽に辞職を命じたことを悲しく思う。黄郵聚三百五十戸を王莽の領土に加え、特進の位、給事中とし、全体集会の時の儀礼は現職三公と同等とし、緑の車に乗ることを許す。」と詔を下した。



二年後、傅太后・丁姫はそれぞれ太后の号を名乗るようになった。丞相の朱博は「以前、王莽は貴い者に貴い地位を与えるという決まりに背き、太后の号を与えることに反対し、陛下が実の親に対して孝行しようとするのを妨害しました。本来なら処刑されるところを恩赦されていますが、領土を持つべき身分ではございません。列侯の地位を取り上げますよう」と上奏したが、哀帝は「王莽は太皇太后の縁者であるので、罷免はしないが、都に留まらずに領土に帰るように」との詔を下した。



哀帝時代の政治問題として、養父ということになる成帝の実母王氏(元后)と正妻趙氏(あの趙飛燕)が祖母・母である一方で、実の祖母と実母もまた健在であった、ということがある。

だが「皇帝の母」として万一の時には皇帝の摂政にさえなる(太)皇太后が何人もいるなどということは言うまでもなく政治的混乱を生じる元であり、実際この時も政治的混乱を生じていた。



前回の通り、当初は王莽を認める方向で決着していたが、王莽が傅太后をあくまでも認めないというスタンスであったため、哀帝と傅太后のサイドは王莽を外す方向に転換したのであった。





なお王莽に与えられた「黄郵聚」というのも南陽郡にある集落であるらしく、おそらく本来の領土に隣接または近接していたのだろう。辞職させる代償として、また元后をはじめとする王莽関係者やシンパを少しでもなだめるための措置だと思われる。




また当初の措置は「給事中」すなわち本来の意味で言えば「宮殿内での仕事をする」という役職を与えられていることからも分かるように朝廷を追放された訳ではなく、長安の屋敷に住み、朝廷にも顔を出す前提であった。



それに対し、二度目の措置の「就国」とは、列侯としての領土である南陽郡の新都侯国へ行け、という意味であり、政治に関与すること自体を官職の上のみならず物理的にも封じるものである。




王莽は、一旦は雌伏を余儀なくされたということになるのだ。





【追記】
あ、そうそう。王莽の罷免と爵位没収を求めた丞相朱博というのは、以前王莽が婢女を贈った人物です。世知辛いですねえ。