『漢書』哀帝紀を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180507/1525619100)の続き。




六月戊午、帝崩于未央宮。
秋九月壬寅、葬義陵。
贊曰、孝哀自為藩王及充太子之宮、文辭博敏、幼有令聞。睹孝成世祿去王室、權柄外移、是故臨朝婁誅大臣、欲彊主威、以則武・宣。雅性不好聲色、時覽卞射武戲。即位痿痺、末年𡩻劇、饗國不永、哀哉!
(『漢書』巻十一、哀帝紀)

元寿2年6月以降。




哀帝崩御



(王)莽還京師歳餘、哀帝崩、無子、而傅太后・丁太后皆先薨、太皇太后即日駕之未央宮收取璽綬、遣使者馳召莽。詔尚書、諸發兵符節、百官奏事、中黄門・期門兵皆屬莽。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

哀帝臨崩、以璽綬付(董)賢曰「無妄以與人。」時國無嗣主、内外恇懼、(王)閎白元后、請奪之。即帯劒至宣徳後闥、舉手叱賢曰「宮車晏駕、國嗣未立、公受恩深重、當俯伏號泣、何事久持璽綬以待禍至邪!」賢知閎必死、不敢拒之、乃跪授璽綬。閎持上太后、朝廷壯之。
(『後漢書』列伝第二、張歩伝、王閎)

後數月、哀帝崩。太皇太后召大司馬(董)賢、引見東廂、問以喪事調度。賢内憂、不能對、免冠謝。太后曰「新都侯(王)莽前以大司馬奉送先帝大行、曉習故事、吾令莽佐君。」賢頓首幸甚。太后遣使者召莽。
既至、以太后指使尚書劾賢帝病不親醫藥、禁止賢不得入出宮殿司馬中。賢不知所為、詣闕免冠徒跣謝。莽使謁者以太后詔即闕下冊賢曰「間者以來、陰陽不調、菑害並臻、元元蒙辜。夫三公、鼎足之輔也、高安侯賢未更事理、為大司馬不合衆心、非所以折衝綏遠也。其收大司馬印綬、罷歸第。」
即日賢與妻皆自殺、家惶恐夜葬。莽疑其詐死、有司奏請發賢棺、至獄診視。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、董賢)


哀帝崩御する際、皇帝の璽綬は寵臣董賢に託していた。董賢が次の皇帝を選び補佐せよ、ということなのだろう。



だが、太皇太后王氏(元后、王莽の伯母)は一族の王閎にその皇帝の璽綬を強引に奪わせ、董賢が何の後ろ盾も無くなると罷免して王莽を代わりに大司馬にした、ということのようだ。




かくして、王莽が漢王朝全体を左右する地位に就いたのである。





なお、賛によると哀帝は皇帝の権威回復を目指し、武帝・宣帝に倣って大臣を処罰し、軍事に興味を持っていた、という。


その一方で病気を抱え、どうやら足が不自由だったようだ。


そんな状態でも権威回復のため強引とも言える手法を取って政治の主導権を握ろうとした人物だったのである。