哀帝の皇后傅氏一族

哀平閒、位不過郎。傅皇后父孔郷侯晏深善於(桓)譚。
是時高安侯董賢寵幸、女弟為昭儀、皇后日已疏、晏嘿嘿不得意。譚進説曰「昔武帝欲立衛子夫、陰求陳皇后之過、而陳后終廢、子夫竟立。今董賢至愛而女弟尤幸、殆將有子夫之變、可不憂哉!」晏驚動曰「然、為之奈何?」譚曰「刑罰不能加無罪、邪枉不能勝正人。夫士以才智要君、女以媚道求主。皇后年少、希更艱難、或驅使醫巫、外求方技、此不可不備。又君侯以后父尊重而多通賓客、必借以重埶、貽致譏議。不如謝遣門徒、務執謙慤、此脩己正家避禍之道也。」晏曰「善」。遂罷遣常客、入白皇后,如譚所戒。
後賢果風太醫令真欽、使求傅氏罪過、遂逮后弟侍中喜、詔獄無所得、乃解、故傅氏終全於哀帝之時。
及董賢為大司馬、聞譚名、欲與之交。譚先奏書於賢、説以輔國保身之術、賢不能用、遂不與通。
(『後漢書』列伝第十八上、桓譚伝)

前漢末、桓譚は哀帝外戚(皇后傅氏の父傅晏)に「皇帝は寵愛する董賢の妹を皇后にしようと思っていて、今の皇后傅氏の罪過を暴いて廃位して皇后を替えるかもしれませんよ」と進言した。



それによると、皇后傅氏は「或驅使醫巫、外求方技」と言った事をしているという。これはもしかして後継ぎを欲するため、あるいは寵愛を取り戻すために医術や呪術を頼っている、という事か。



この手の「男子を得るための努力」は報われないどころか、愛妾を呪殺しようとした、などと言われて命とりになる事がありがちである。




傅晏は自分自身の身を正すとともに、娘である皇后にも桓譚の戒めを伝えた。最終的にはそのおかげで董賢の仕掛けた罠にかからずに身を全うできたのだ、ということである。





董賢は皇后傅氏一族を消そうとし、傅氏は傅氏で怪しげな手段に頼ろうとしていた、という前漢末の後宮の暗部であった。