『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その46

その45の続き。

今功顯君薨、禮『庶子為後、為其母緦。』傳曰『與尊者為體、不敢服其私親也。』攝皇帝以聖徳承皇天之命、受太后之詔居攝踐祚、奉漢大宗之後、上有天地社稷之重、下有元元萬機之憂、不得顧其私親。故太皇太后建厥元孫、俾侯新都、為哀侯後。明攝皇帝與尊者為體、承宗廟之祭、奉共養太皇太后、不得服其私親也。周禮曰『王為諸侯緦縗』、『弁而加環絰』、同姓則麻、異姓則葛。攝皇帝當為功顯君緦縗、弁而加麻環絰、如天子弔諸侯服、以應聖制。」
莽遂行焉、凡壹弔再會、而令新都侯宗為主、服喪三年云。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

今、功顕君が薨去しましたが、『儀礼』に「庶子が後継者となったら、母親の喪に際して軽い喪服である緦を着る」とあり、伝に「高い身分の者の後継となったら、自分の実の親に対しては服喪しない」とあります。
摂皇帝は聖なる徳をもって天命を受け、太皇太后の詔によって国政を代行し、漢の宗家を奉じ、上は天地や社稷の重さを担い、下は人々のあらゆる憂いごとを共有しており、実の親のことを顧みることはできないのです。
故に太皇太后は嫡孫を立てて新都侯とし、(王莽の父)新都哀侯の後継者として扱ったのです。
摂皇帝が高い身分の者の後継となり、漢の宗廟の祭祀を受け継ぎ、太皇太后を助けるべきであり、実の親に対して服喪することができないのは明らかです。
『周礼』に「王は諸侯の喪に際して緦衰の喪服を着る」「冠に輪になった帯を付ける」とあります。同姓の喪に対しては麻、異姓の喪に対しては葛の素材を用います。摂皇帝は功顕君に対しては緦衰の喪服を着て、冠に輪になった麻の帯を付け、天子が諸侯の喪を弔う時のようにし、古の聖人の制度に合わせるべきです。」



王莽はこれを行ない、功顕君に対しては一度弔い、二度会い、新都侯王宗を喪主として三年の喪に服させた。



劉歆と愉快な儒者仲間の結論は、「王莽さまは漢王朝の後継みたいなものだ。これは庶子が嫡子となったら実母には母としての喪に服さないのと同じで、王莽さまも実母には母としての三年の喪に服するべきではない」ということらしい。





「哀侯」とは王莽の実父、王曼のこと。元后は王曼の死後に王曼を新都哀侯とし、王莽を新都侯としたのである。





思えば、王宗(王莽の孫。呂寛事件で死んだ王宇の子)を新都侯にしていたのは、功顕君の薨去が近づいており、王莽以外の者に王莽の代わりの喪主を務めさせよう、という目的から逆算していたのかもしれない。


新都哀侯夫人である功顕君の喪主となるにふさわしいのは現新都侯ということになるのだから。