後宮は皇太后でいっぱい

成帝崩、哀帝即位。王太后詔令傅太后・丁姫十日一至未央宮。高昌侯董宏希指、上書言宜立丁姫為帝太后。師丹劾奏宏懷邪誤朝、不道。」上初即位、謙讓、從師丹言止。
後乃白令王太后下詔、尊定陶恭王為恭皇。哀帝因是曰「春秋『母以子貴』、尊傅太后為恭皇太后、丁姫為恭皇后、各置左右袪事、食邑如長信宮・中宮。追尊恭皇太后父為崇祖侯、恭皇后父為襃徳侯。」
後歳餘、遂下詔曰「漢家之制、推親親以顯尊尊、定陶恭皇之號不宜復稱定陶。其尊恭皇太后為帝太太后、丁后為帝太后。」後又更號帝太太后為皇太太后、稱永信宮、帝太后稱中安宮、而成帝母太皇太后本稱長信宮、成帝趙后為皇太后、並四太后、各置少府・太僕、秩皆中二千石。為恭皇立寢廟於京師、比宣帝父悼皇考制度、序昭穆於前殿。
(『漢書』巻九十七下、孝元傅昭儀伝)

前漢成帝は後継ぎに恵まれず、甥に当たる定陶王を養子として迎え入れ皇太子とした。




それが有名な哀帝である。





哀帝は即位後に実母の丁氏と実の祖母傅氏を「皇帝の母」として扱おうとする*1




これは当時の漢王朝にとっては重大なことであったようだ。





というのも、哀帝はあくまでも成帝の子として即位したのであるし、哀帝の母として成帝の皇后趙氏(趙飛燕)、祖母として成帝の皇太后王氏(王莽の伯母)が健在であったからだ。




もしも哀帝が実際には諸侯王の生母に過ぎない丁氏や傅氏を皇帝の母として扱うことになれば、政治的混乱を招くことは明らかである。





当然大臣たちも反対したが、諦めない哀帝は「恭皇后⇒帝太后」「恭皇太后⇒帝太太后⇒皇太太后」と段階的に実母・実祖母を「皇帝の母」へ近づけていくことに成功した。



最終的には「皇太后」が事実上4人存在するも同然というカオスな状態が生まれることとなる。




最初のステップで丁氏を「恭皇后」とするのは、おそらく「定陶恭皇(哀帝の実父)の正妻」であって「皇帝の母」ではないと言いつつ明らかに特別扱い(夫が皇帝ではないのに皇后の号を与えられる)することで後宮の地位を確保するということだったのだろう。






このような曖昧な状態は、先日記事にした「孝仁皇后」などの状態に似ているような気がする。



というかこの故事が後漢で多少形を変えて生きていたということか。




「孝仁皇后」も、彼女と彼女を推す勢力としては正式な皇太后に近づくためのステップであったのかもしれない。

*1:漢の文帝の母薄氏は高祖劉邦の側室であったが、文帝の即位によって文帝の皇太后へと格上げされている。おそらくはこういう事例があったことが哀帝の追い風となったのであろう。