漢の武帝批判

昨日の記事で魏の明帝の即位当初に王朗が元号廃止を提案したと紹介したが、その元号というのは漢の武帝が始めたものだというのは割と知られていることだろう。




で、その漢の武帝と魏の明帝といえば、これを思い出す人もいるのではないか。

世語曰、帝與朝士素不接、即位之後、羣下想聞風采。居數日、獨見侍中劉曄、語盡日。衆人側聽、曄既出、問何如。曄曰「秦始皇・漢孝武之儔、才具微不及耳。
(『三国志』巻三、明帝紀注引『世語』)

明帝は即位直後に劉曄から「漢の武帝と同じタイプだ」と評されており、それは群臣間での共通認識となっていたと思われるわけだ。





あれ、じゃあ王朗の提案は結果的に「陛下と同じタイプの皇帝である漢の武帝が始めた元号制度はいけませんねえ」と言っていたと考えられるわけで、漢の武帝タイプと評された皇帝本人に対しては大変意味深な内容となっていたことになるな・・・。



帝又問「司馬遷以受刑之故、内懐隠切、著史記非貶孝武、令人切齒。」對曰「司馬遷記事、不虚美、不隠惡。劉向・揚雄服其善敍事、有良史之才、謂之實録。漢武帝聞其述史記、取孝景及己本紀覽之、於是大怒、削而投之。於今此兩紀有録無書。後遭李陵事、遂下遷蠶室。此為隠切在孝武、而不在於史遷也。」
(『三国志』巻十三、王粛伝)

そういえば息子の王粛はやはり明帝に対して「武帝司馬遷から自分や父の記事を抹消させたんだ」という漢武disを行っている。


これなどは明帝側も明らかに自分と漢武帝を重ね合わせているのでほとんど明帝批判も同然になっている。




この親子は明帝に対して含むところがあったのか、それとも純粋に思うところを述べたら明帝の急所に突き刺さったのだろうか。