元号廃止

魏明帝初、司空王朗議「古者有年數、無年號、漢初猶然。或有世而改、有中元・後元。元改彌數、中・後之號不足、故更假取美名、非古也。述春秋之事、曰隠公元年、則簡而易知。載漢世之事、曰建元元年、則後不見。宜若古稱元而已。」明帝不從。
(『宋書』巻十四、礼志一)

魏の明帝曹叡様が即位した当初、司空の王朗は「古は元号などありませんでしたから、陛下も『元年』と称するだけで元号を立てないようにしてはいかがでしょう」という提案をしたが、明帝はそれに従わなかったという。



漢スタートとはいえ既に三百年は続いている元号制度を廃止しようという考えが魏王朝の上層部から出ていたのは興味深い。




あえて理由を政治的な面から推測するなら、蜀漢も呉も独自の元号を立てている現状において魏王朝の優越を明らかにする手法として、「元号などという後付けの制度から自由になって理想の時代に近づいた魏王朝」というアピールを試みた、というところだろうか。





「明帝元年」「高貴郷公三年」みたいに表記されるの見てみたかった。