『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/02/000100)の続き。





九月甲戌、即皇帝位、年九歳。
遷皇太后於永安宮。大赦天下。改昭寧為永漢。
丙子、董卓殺皇太后何氏。
初令侍中・給事黄門侍郎員各六人。賜公卿以下至黄門侍郎家一人為郎、以補宦官所領諸署、侍於殿上。
乙酉、以太尉劉虞為大司馬。
董卓自為太尉、加鈇鉞・虎賁。
丙戌、太中大夫楊彪為司空。
甲午、豫州牧黄琬為司徒。
遣使弔祠故太傅陳蕃・大將軍竇武等。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


劉協、即位。


永漢元年に改元。中平6年から光熹元年、そしてまた昭寧元年に改元し、みたび改元した。



前後の平穏に皇帝の代替わりを終わらせた事例の大半では、改元は代替わりの翌年になっている*1


即位直後の改元は、何か根本的な政治的刷新があったとか、即位に平穏ではない何かが起こっていた事を示す事が多いようだ。



今回については言うまでもないだろう。霊帝から劉弁(少帝)への代替わりではまず反宦官の何進が権力を握るという政治的刷新によって光熹に改元し、何進の死をきっかけに宦官が一掃されるという政治的刷新によってまた昭寧に改元している。


今度の改元は、あの董卓が武力を背景に劉協を即位させるという政治的刷新を示すものなのだろう。


因集議廢立。百僚大會、(董)卓乃奮首而言曰「大者天地、其次君臣、所以為政。皇帝闇弱、不可以奉宗廟、為天下主。今欲依伊尹・霍光故事、更立陳留王、何如?」公卿以下莫敢對。卓又抗言曰「昔霍光定策、延年案劒。有敢沮大議、皆以軍法從之。」坐者震動。尚書盧植獨曰「昔太甲既立不明、昌邑罪過千餘、故有廢立之事。今上富於春秋、行無失徳、非前事之比也。」卓大怒、罷坐。明日復集羣僚於崇徳前殿、遂脅太后、策廢少帝、曰「皇帝在喪、無人子之心、威儀不類人君、今廢為弘農王。」乃立陳留王、是為獻帝。
又議太后䠞迫永樂太后、至令憂死、逆婦姑之禮、無孝順之節、遷於永安宮、遂以弒崩。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)


董卓は太古の伊尹、前漢の霍光の事例を持ち出して皇帝廃立を進めた。いずれも当時の暴君とされる天子を廃して別の賢明な宗室を立てた大臣である。


だが、盧植の言う通り、仮に劉弁に不安な面があったにしろ、本当に劉弁より賢く育つかどうかも分からないはずの9歳の子供に代えようというのは無茶苦茶であろう。

しかし、霍光の時は腹心田延年に「廃立に従わなければ斬る」と言わせており董卓もそれを踏まえた事を言っている。


この提案に反対すれば斬られるという事なのだ。だから真っ向から反論する者がほとんどいなかったのである。





「賜公卿以下至黄門侍郎家一人為郎、以補宦官所領諸署、侍於殿上」というのは、それまで宦官がトップになっていた諸官庁の官に就ける、という事だ。宦官絶滅によってポストを埋める人材が必要になったのではなかろうか。


あるいは、「永漢元年、舉孝廉、拝守宮令」(『三国志』荀彧伝)という荀彧などもこの時の登用かもしれない。




劉虞、太尉から大司馬へ。大司馬は後漢初期に太尉に名称変更して以来使われてなかったはずであり、ここで復活した事になる。実態は董卓が太尉後任になるために太尉からどかして劉虞を実態の怪しいポストに追いやるため、という感じがするが。なお劉虞はずっと幽州方面におり、この時も朝廷に居合わせていたわけではない。




*1:後漢では質帝から桓帝、魏では文帝から烈祖様への代替わりなど。そうでない例が無いとは言っていない。