『史記』の謎

漢已平呉楚、孝景帝欲以徳侯子續呉、以元王子禮續楚。竇太后曰「呉王、老人也、宜為宗室順善。今乃首率七國、紛亂天下、奈何續其後!」不許呉、許立楚後。是時禮為漢宗正、乃拜禮為楚王、奉元王宗廟、是為楚文王。
文王立三年卒、子安王道立。安王二十二年卒、子襄王注立。襄王立十四年卒、子王純代立。王純立、地節二年、中人上書告楚王謀反、王自殺、國除、入漢為彭城郡。
(『史記』巻五十、楚元王世家)

漢の高祖の弟である劉交は楚王となった。その孫はいわゆる呉楚七国の乱で反乱者となって滅ぼされたが、景帝によって劉交の子が楚を継ぐことを許された。



その後、楚王は四代にわたって継承されたが、宣帝の地節二年に反乱を企てたとの告発があったため時の王は自殺に追い込まれたのだった。





・・・あれ?宣帝期・・・?




史記』というと武帝の頃の人である司馬談司馬遷の筆であるから、まあ十中八九はこの部分には司馬遷以外による加筆があることになる。


だが、最後の「地節」以降だけが加筆なのか、それ以前から加筆が含まれているのか、実のところはっきりした痕跡がないのでわからない。




このように、『史記』には実は複数個所にこういった「司馬遷が書いたとは思われない部分」があって、しかもWikipediaの履歴のような機能は無いので、どこからどこまでが後世の加筆なのか明確にはなっていないのである。