鮮卑奴

豫章君荀氏、元帝宮人也。
初有寵、生明帝及琅邪王裒、由是為虞后所忌。自以位卑、毎懐怨望、為帝所譴、漸見疏薄。及明帝即位、封建安君、別立第宅。太寧元年、帝迎還臺内、供奉隆厚。及成帝立、尊重同于太后
咸康元年薨。詔曰「朕少遭憫凶、慈訓無稟、撫育之勤、建安君之仁也。一旦薨殂、實思報復、永惟平昔、感痛哀摧。其贈豫章郡君、別立廟于京都。」
(『晋書』巻三十二、元敬虞皇后伝)

東晋の二代目明帝の実母は荀氏といい、元帝の宮人であった。



この荀氏は元帝の寵を受けて男子二人を産んでいるが、この伝によれば地位が低いことから恨みを抱いたことで皇帝から譴責を受け、冷遇されるようになったという。




実子明帝即位後も扱いはそれほど変わらず、皇太后に立てられることは最後までなかった。






これはやはりもともと地位の低い宮女だったということが最大の理由なのだろうが、もしかするとこんなことも関係しているかもしれない。


又(王)敦正晝寢、夢日環其城、驚起曰「此必黄鬚鮮卑奴來也。」帝母荀氏、燕代人、帝状類外氏、鬚黄、敦故謂帝云。
(『晋書』巻六、明帝紀、太寧二年)

どうもこの荀氏は鮮卑の外見に近かったようだ。


明帝が彼女に似て鮮卑っぽいと言われているのだから、母はもっとそれっぽかったのだろう。




ホンマものの鮮卑の奴婢だったのか、それとも似ていた(混血かもしれないが)だけなのかは分からないが、いかにも鮮卑っぽいというのは異民族連中に土地を追われた形になっている東晋としては特に敏感だった・・・のかも。