東宮の謎

明悼毛皇后、河内人也。黄初中、以選入東宮、明帝時為平原王、進御有寵、出入與同輿輦。及即帝立、以為貴嬪。太和元年、立為皇后。
(『三国志』巻五、明悼毛皇后伝)

東宮」といえば三国時代においては基本的には皇太子の宮殿、あるいは太子そのものを指していると思って良いと思っていたのだが、もしかしたら話はそう簡単ではないかもしれない。




魏の明帝曹叡様の皇后となった毛氏は「東宮」に仕えることとなり、そこで「平原王であった曹叡様」のオキニとなった。








皇太子ではなかった曹叡様が東宮の女官をコマしたと読めるわけだが・・・これはどういうことか?





曹叡様は皇太子に立てられていない時期に東宮の主として振る舞っていたということなのか。



それとも皇子は主無き東宮の女官を自由に「お手付き」する権利があったのか。



はたまた上記の記事にはなんらかの誤りなり省略なりがあって真実を伝えていないのか。






文帝在東宮、太祖謂曰「荀公達、人之師表也、汝當盡禮敬之。」
(『三国志』巻十、荀攸伝)

ちなみに似たような疑問が曹丕にもある。



曹操は息子曹丕が「東宮」に置かれていた時期、「荀攸は人の手本になる立派な人物なので礼を尽くして敬うように」と述べたという。




だが曹丕が魏の太子に立てられた時には、荀攸は死んでいるはずなのである。