『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/28/000100)の続き。





二年春正月、大疫、使使者巡行致醫藥。
丁丑、司空宗倶薨。
二月壬午、大赦天下。
以光祿勳楊賜為司空。
三月、太尉李咸免。
夏五月、以司隸校尉段熲為太尉。
沛相師遷坐誣罔國王、下獄死。
六月、北海地震。東萊・北海海水溢。
秋七月、司空楊賜免、太常潁川唐珍為司空。
冬十二月、日南徼外國重譯貢獻。
太尉段熲罷。
鮮卑寇幽并二州。
癸酉晦、日有食之。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

熹平2年。



楊賜はあの楊震の孫。そして楊賜の子は楊彪、孫は楊修である。


(陳王)承薨、子愍王寵嗣。
熹平二年、國相師遷追奏前相魏愔與寵共祭天神、希幸非冀、罪至不道。有司奏遣使者案驗。
是時新誅勃海王悝、靈帝不忍復加法、詔檻車傳送愔・遷詣北寺詔獄、使中常侍王酺與尚書令・侍御史雜考。愔辭與王共祭黃老君、求長生福而已、無它冀幸。酺等奏愔職在匡正、而所為不端、遷誣告其王、罔以不道、皆誅死。有詔赦寵不案。
(『後漢書』列伝第四十、陳愍王寵伝)


師遷なる人物は実は陳相であり、その王は三国志ファンにはおなじみ陳王劉寵である。



沛相は前任の陳相であった魏愔の事で、陳王劉寵は「黄老君」を祭って長生きを求めていたとされ、魏愔はその陳王を教導できなかった罪で誅殺された。ただし、陳相師遷も自分の主君である陳王を誣告したという事で同様に誅殺された。陳王だけが残るという結末であった。



対羌などで功績を挙げていた段熲、三公となる。功績が大きかったというのも理由の一つだろうが、前年の落書事件で宦官の命に従って容疑者を挙げたという功績も考慮されたのかもしれない。



三公になった唐珍、この兄は宦官の唐衡である。唐衡というのはあの荀彧に娘を嫁がせたと言われる人物の事。





今回は少しだけ三国志との接点が多めだった。