名誉の負傷

和熹訒皇后諱綏、太傅禹之孫也。父訓、護羌校尉、母陰氏、光烈皇后從弟女也。后年五歳、太傅夫人愛之、自為翦髮。夫人年高目冥、誤傷后額、忍痛不言。左右見者怪而問之、后曰「非不痛也、太夫人哀憐為斷髮、難傷老人意。故忍之耳。」
(『後漢書』紀第十、皇后紀上、和熹訒皇后)

和熹訒后年五歳、太夫人為剪髮、夫人年老目冥、並中后額、雖痛忍而不言、一額盡傷。左右怪而問之、后言「夫人哀我為斷髮、難傷老人意、故忍之耳。」
(『太平御覧』巻百三十七引『東観漢記』)


後漢の和帝の訒皇后は訒禹の孫という超VIPの家に生まれた。




そんな彼女が五歳の時、彼女を愛する祖母は自分で孫娘の前髪を切り揃えてあげようと考えたが、老年で目が悪くなっていた祖母は誤って孫娘の額を切まくっていた。



「一額盡傷」とあるから、割とシャレにならない怪我をしたのではなかろうか。




だが孫娘は一切声を上げずにこの惨劇を耐え忍び、後で無抵抗だったことを不思議がる周囲の者に「お祖母さまは私のために髪を切ってくださっていたのです。そんなお祖母さまの気持ちを傷つけることなんてできませんでした」と答えたという。





お祖母さまは後からこの事件の真実を知ったらそれこそ心を痛めることになりそうだな、などと茶化すのはまあともかく、後に幼帝の皇太后として漢王朝の事実上のトップとなる女傑の額には孝行の証である大きな傷跡があった、ということなのだなあ。