『漢書』景帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171104/1509722124)の続き。




六年冬十二月、雷、霖雨。
秋九月、皇后薄氏廢。
七年冬十一月庚寅晦、日有蝕之。
春正月、廢皇太子榮為臨江王。
二月、罷太尉官。
夏四月乙巳、立皇后王氏。
丁巳、立膠東王徹為皇太子。賜民為父後者爵一級。
(『漢書』巻五、景帝紀

景帝前6年、7年。



景帝為太子時、薄太后以薄氏女為妃。
及景帝立、立妃曰薄皇后。皇后毋子、毋寵。薄太后崩、廢薄皇后。
景帝長男榮、其母栗姫。栗姫、齊人也。立榮為太子。
長公主嫖有女、欲予為妃。栗姫妒、而景帝諸美人皆因長公主見景帝、得貴幸、皆過栗姫、栗姫日怨怒、謝長公主、不許。長公主欲予王夫人、王夫人許之。長公主怒、而日讒栗姫短於景帝曰「栗姫與諸貴夫人幸姫會、常使侍者祝唾其背、挾邪媚道。」景帝以故望之。
景帝嘗體不安、心不樂、屬諸子為王者於栗姫曰「百歳後、善視之。」栗姫怒、不肯應、言不遜。景帝恚、心嗛之而未發也。
長公主日譽王夫人男之美、景帝亦賢之、又有曩者所夢日符、計未有所定。
王夫人知帝望栗姫、因怒未解、陰使人趣大臣立栗姫為皇后。大行奏事畢曰「『子以母貴、母以子貴』、今太子母無號、宜立為皇后。」景帝怒曰「是而所宜言邪!」遂案誅大行、而廢太子為臨江王。
栗姫愈恚恨、不得見、憂死。
卒立王夫人為皇后、其男為太子、封皇后兄信為蓋侯。
(『史記』巻四十九、外戚世家)

薄皇后は景帝の祖母である薄太后の親族。皇太子時代からの正妻であったが、薄太后が死ぬとすぐ廃位されてしまったということである。



そして、既に立っていた皇太子も廃位。しかし皇太子の母は薄皇后ではなく、栗姫という寵姫だった。



本来なら栗姫が皇后になるのが順当なところだったが、景帝の姉にあたる長公主が栗姫と大変仲が悪く、栗姫は皇太子ともども失脚した、ということである。




そして新たに立った皇太子というのが劉徹、後の漢の武帝であった。




太尉を廃止したとあるが、これは実際には太尉であった周亜夫が丞相に遷った時の事である。つまり、太尉が完全に廃止されたというよりは、丞相の兼任のような形となったものと見た方が良いのだろう。




六年春、封中尉(衛)綰為建陵侯、江都丞相(程)嘉為建平侯、隴西太守(公孫)渾邪為平曲侯、趙丞相嘉為江陵侯*1、故將軍(欒)布為鄃侯。
梁楚二王皆薨。
後九月、伐馳道樹、殖蘭池。
七年冬、廢栗太子為臨江王。
十一月晦、日有食之。
春、免徒隸作陽陵者。
丞相青免。
二月乙巳、以太尉條侯周亞夫為丞相。
四月乙巳、立膠東王太后為皇后。
丁巳、立膠東王為太子。名徹。
(『史記』巻十一、孝景本紀)

史記』本紀では列侯になった者たちが列挙される。これは呉楚七国の乱で将軍として功績があった者たちである。




*1:漢書』景武昭宣元成功臣表ではそれに当たる人物について「江陽侯蘇息」と記されている。