縁の切れ目

(桓)典字公雅、復傳其家業、以尚書教授潁川、門徒數百人。舉孝廉為郎。居無幾、會國相王吉以罪被誅、故人親戚莫敢至者。典獨弃官收斂歸葬、服喪三年、負土成墳、為立祠堂、盡禮而去。
(『後漢書』列伝第二十七、桓典伝)

後漢の学者一族である沛国の桓氏である桓典は、沛国相王吉によって孝廉に推挙されて中央の官に就いた。




その王吉が誅殺されると、ことがことだけに親戚や恩顧の者たちには彼の死に駆けつけて葬式を出してやる者がいなかったが、桓典だけは駆けつけて王吉のために葬式を出し、更には彼のために三年の喪を行ったという。




これは逆に言うと、普段なら親への孝行にも匹敵するくらい忠節を誓うこともある故吏といえども、失脚して誅殺されてしまうやほとんどの者は巻き添えを恐れて尻込みしてしまう、ということなのだろう。





当然と言えば当然なのだろうが、権力の切れ目が縁の切れ目というところだろうか。