(許)后姊平安剛侯夫人謁等為媚道祝謯後宮有身者王美人及(王)鳳等、事發覺、太后大怒、下吏考問、謁等誅死、許后坐廢處昭臺宮、親屬皆歸故郡山陽、后弟子平恩侯旦就國。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、孝成許皇后)
漢の成帝の皇后許氏の姉の「平安剛侯夫人謁」は当時の権力者王鳳(王莽の伯父)を呪詛したとされた。
この「平安剛侯夫人謁」の夫「平安剛侯」とは誰の事か?
『漢書』景武昭宣元成功臣表、外戚恩沢侯表に「平安侯」は出てこないように思われる。
安平夷侯(王)舜
初元元年癸卯以皇太后兄侍中中郎將封、千四百戸、十三年薨。
建昭四年、剛侯章嗣、十四年薨。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表)
中少府安平侯王章子然為執金吾、三年遷。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、竟寧元年)
執金吾王章為太僕、五年病免。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、建始二年)
太僕王章為右將軍。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、河平三年)
右將軍王章為光祿勳、數月薨。
(『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年)
だが、「安平剛侯王章」という人物が同時期に居る。しかも、『史記』漢興以来将相名臣年表では「平安侯王章」と書かれているので、何故か当時から「安平侯」なのか「平安侯」なのか混乱してたらしい。
となると、許皇后の姉というのはまず確実にこの「安平剛侯王章」の事だろう。なおこの王章は宣帝の皇后王氏の一族である。
宣帝の皇后の一族王氏と宣帝(と成帝)の皇后の一族許氏の間で通婚が行われていたらしい。まあ、おそらく他の外戚同士でも同じように通婚していたんじゃないかと思うが、宣帝の皇后の家同士という関係というのが少々面白い。