王夫人排斥の理由

呉主(孫)權王夫人、琅邪人也。夫人以選入宮、黄武中得幸、生(孫)和、寵次歩氏。歩氏薨後、和立為太子、權將立夫人為后、而全公主素憎夫人、稍稍譖毀。及權寢疾、言有喜色、由是權深責怒、以憂死。和子晧立、追尊夫人曰大懿皇后、封三弟皆列侯。
(『三国志』巻五十、妃嬪伝、呉主権王夫人)


昨日多少言及したが、孫和の母、孫晧の祖母に当たる王夫人は、孫権から寵愛を受けていながら全公主(いわゆる孫魯班)の讒言によって孫権の不興を買い、死に至らしめられたのだ、とされる。




孫権が単に移り気で讒言に弱いヤツだっただけかもしれないが、それにしたってチョロいだろう。



では、別の理由や原因は考えられないだろうか?



褚先生曰・・・(中略)・・・上居甘泉宮、召畫工圖畫周公負成王也。於是左右羣臣知武帝意欲立少子也。後數日、帝譴責鉤弋夫人。夫人脱簪珥叩頭。帝曰「引持去、送掖庭獄!」夫人還顧、帝曰「趣行、女不得活!」夫人死雲陽宮。時暴風揚塵、百姓感傷。使者夜持棺往葬之、封識其處。
其後帝閑居、問左右曰「人言云何?」左右對曰「人言且立其子、何去其母乎?」帝曰「然。是非兒曹愚人所知也。往古國家所以亂也、由主少母壯也。女主獨居驕蹇、淫亂自恣、莫能禁也。女不聞呂后邪?」故諸為武帝生子者、無男女、其母無不譴死、豈可謂非賢聖哉!昭然遠見、為後世計慮、固非淺聞愚儒之所及也。謚為「武」、豈虛哉!
(『史記』巻四十九、外戚世家)

史記』を補った褚先生が伝えるところでは、漢の武帝は最晩年にいまだ幼い末子(昭帝)を後継者にしようと決めたのち、呂后時代のようにならないようにと禍根を絶つため敢えてその母である鉤弋夫人を殺したのだという。



武帝の話の信憑性はともかくとして、そういう話が伝わっていたこと自体は間違いない。



孫権は、かつて漢武帝が行ったという処置に習ったのだ、と考えることも出来るのではないだろうか。



つまり、自分の死後に皇帝の母が皇太后となって絶大な権力を握れば呉王朝に混乱をもたらすだろうと考え、わざと王夫人を死に追いやって皇太后にならないようにしたんじゃないか、ということである。




むろんこれは憶測でしかないが、孫権が長寿や長期在位、後継者問題などの点で漢の武帝に似ており、孫権自身武帝を参考にできる部分が多いと考えたとしてもおかしくはない、とは言えるんじゃないかと思う。