楚王彪の家族の行先

乃遣傅及侍御史就國案驗、收治諸相連及者。廷尉請徴(曹)彪治罪。於是依漢燕王旦故事、使兼廷尉大鴻臚持節賜彪璽書切責之、使自圖焉。彪乃自殺。妃及諸子皆免為庶人、徙平原
(『三国志』巻二十、楚王彪伝)

令狐愚・王淩の謀反の時に新帝として担がれた楚王彪は自殺を強要され、妻子は地位を剥奪された上で平原に移住させられたという。






こういう時の強制移住先は大抵もっと僻地が多いように思ったが、もしかすると、こういうことかもしれない。

太和六年、明帝愛女淑薨、追封諡淑為平原懿公主、為之立廟。取后亡從孫黄與合葬、追封黄列侯、以夫人郭氏從弟悳為之後、承甄氏姓、封悳為平原侯、襲公主爵。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)

この頃、平原侯は甄悳という人物であった。



明帝の母甄氏を名乗っているが、明帝の皇后で当時皇太后だった郭氏の血族である。




明帝の叔父が即位したりするのは皇太后の郭氏にとって存在意義が問われる事態となる。


というか廃位まっしぐらであろう。




つまり、郭氏は楚王彪の事件を誰よりも極めて重く受け止めたであろう立場なのである。





ということは、そのような人物の手元に置くことで厳重に監視した、ということだったのかもしれない。