親孝行か親不孝か

文帝甄后賜死、故不列廟。明帝即位、有司奏請追諡曰文昭皇后、使司空王朗持節奉策告祠于陵。三公又奏曰「自古周人始祖后稷、又特立廟以祀姜嫄。今文昭皇后之於後嗣、聖徳至化、豈有量哉。夫以皇家世妃之尊、神靈遷化、而無寝廟以承享祀、非以報顯徳、昭孝敬也。稽之古制、宜依周禮、先妣別立寝廟。」奏可。
以太和元年二月、立廟于鄴。
四月、洛邑初營宗廟、掘地得玉璽方一寸九分、其文曰「天子羨思慈親。」明帝為之改容。
(『宋書』巻十六、礼志三)

魏の曹叡こと烈祖様は、実母である甄氏に皇后の位を贈り、彼女のための廟を立てようとした。



その際、洛陽で「天子は親を慕う」といった内容の言葉が刻まれた玉璽が出土したため、烈祖様は身を正した、という。




烈祖様としては「自分が実母を慕う気持ちは天にも通じている」といった風に解釈したのだろうし、それはもっともな話だと思う。





だが、DNAはともかく(意味深)公式には母である皇太后郭氏、父である文帝曹丕に対する烈祖様の態度の方から解釈すると、「親のはずの曹丕や郭氏のことを慕え」という譴責と考える余地もあるのではなかろうか、などとも思う。