境界争い

徴拜少府、出為荊州刺史、遷冀州牧。太傅司馬宣王謂(孫)禮曰「今清河・平原爭界八年、更二刺史、靡能決之。虞・芮待文王而了、宜善令分明。」禮曰「訟者據墟墓為驗、聽者以先老為正、而老者不可加以榎楚、又墟墓或遷就高敞、或徙避仇讐。如今所聞、雖皋陶猶將為難。若欲使必也無訟、當以烈祖初封平原時圖決之。何必推古問故、以益辭訟?昔成王以桐葉戲叔虞、周公便以封之。今圖藏在天府、便可於坐上斷也、豈待到州乎?」宣王曰「是也。當別下圖。」禮到、案圖宜屬平原。
(『三国志』巻二十四、孫礼伝)

三国魏の孫礼は、曹爽と司馬懿の輔政時代に冀州牧となった。




この時、冀州では清河郡と平原郡の間で八年間も境界争いが起こっており、歴代刺史も決着を付けられないでいたのだそうだ。



司馬懿は孫礼にこの件の決着を付けるよう申し伝えたが、孫礼は「それは烈祖(明帝曹叡様)が平原王になった時の地図を確認するのが確実です」と答えた。




届いた地図を確認した孫礼は、境界争いの原因となっている土地が平原郡に属するのだということを確認し、そのように決定したという。




現代でも国家間はもちろん地方自治体間ですら領域争いは起こるものだが、この時代にもそういったものがやはりあったようである。






なお、この記事では省略しているが、その後どうやら清河郡は曹爽に泣きついたらしく、曹爽が孫礼に「その地図だけで決めるな。他の資料と照らし合わせろ」と横槍を入れてきている。



もしかしたら、この境界争いは地味に中央の権力争いとリンクしていた事件なのかもしれない。