母の夫と子

魏略曰、明帝既嗣立、追痛甄后之薨、故太后以憂暴崩。甄后臨沒、以帝屬李夫人。及太后崩、夫人乃説甄后見譖之禍、不獲大斂、被髮覆面、帝哀恨流涕、命殯葬太后、皆如甄后故事。
漢晉春秋曰、初、甄后之誅、由郭后之寵、及殯、令被髮覆面、以糠塞口、遂立郭后、使養明帝。帝知之、心常懐忿、數泣問甄后死状。郭后曰「先帝自殺、何以責問我?且汝為人子、可追讎死父、為前母枉殺後母邪?」明帝怒、遂逼殺之、勑殯者使如甄后故事。
(『三国志』巻五、后妃伝注)

魏の明帝の実母、甄氏。


彼女は死後に髪を解いてざんばらにして顔を覆い、糠で口を塞いだ状態で葬られたという。



さて、彼女に死後そんな辱めを与えたのは一般に皇后となった郭氏であったと解釈するのが一般的であるように思われる。少なくとも、上記『魏略』はそう読めないこともない。
例えば某Wikipediaではそうなっているようだ*1



しかし、よく上記2つの記事を見ると、郭氏が行ったとされているのは讒言であり、甄氏が誅殺されたり死後酷い目にあったのは讒言の結果であって郭氏が実行犯とは言えないのではないかと読める。



では、甄氏殺しや死後の辱めの主犯は誰か。
明帝が本当に恨んでいた相手は誰か。


「初、甄后之誅、由郭后之寵、及殯、令被髮覆面、以糠塞口、遂立郭后、使養明帝。」という『漢晋春秋』の一文の主語になっている人物だろう。
「郭后を立て」とあるので、その主語は決して郭氏ではない。


*1:あくまでもこの記事執筆時の版。