建安年間の皇太子


さあいつもの手抜きツイッターから。



ほうなるほど、曹操が「皇太子」にね。



上記ツイートの内容は確かに『全三国文』巻一に収録されており、どうやら曹操が魏公になってからの話らしい。



ツイートにもあるように、このとき献帝が皇太子を立てていたという話は出てこないため、不思議な話に思えるのである。





だがちょっと待ってほしい。

太子早卒、孫康立五十一年、晉太康六年薨。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


ここで「太子」と言っているのは献帝の「太子」である。
献帝の「太子」は父に先だって早死にしたというのだ。

献帝には早くに死んだ「太子」がいた*1


遂將(伏)后下暴室、以幽崩。所生二皇子、皆酖殺之。
(『後漢書』紀第十、献帝伏皇后紀)

献帝の皇后伏氏は廃位され、彼女が生んだ皇子2人は毒殺された。


さて、皇后が生んだ皇子は、いったいどんな地位に就いていたのだろうか?





ここで「曹操献帝の皇后と一緒に殺した皇子って皇太子もいたんじゃない?そいつが後継いで曹操を恨んだたら厄介なことになるからついでに殺したんだろう」とか言ってしまうと世の曹操のファン等を嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないので、これ以上はやめておこう*2

*1:ただし、退位後の「山陽公」の太子であった可能性もある。

*2:本当は2年前にもこんなhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100804/1280849965記事書いてるって言いたいわけじゃないんだからね!