若き献帝の悩み

後將軍楊定請侍中尹忠為長史、詔曰「侍中近侍、就非其宜、必為關東所笑。前在長安、李傕專政。今朕秉萬機、豈可復亂官爵邪」
時上年十五、毎事出於胸懷、皆此類也。
(『後漢紀』孝献皇帝紀第二十八、興平二年八月)

後漢献帝長安を出て新豊に居た頃、同行していた(護送していた)後将軍楊定が皇帝の侍中を自分の長史にしてほしいと願うと、「侍中は皇帝の近侍であるから、変な人事をしては関東の連中に笑われてしまう。長安に居た時は政治を牛耳っていた李傕がそういった人事もしていたかもしれないが、朕が万機を統べる今では、もう官位や爵位を乱すような事はせんぞ」という詔を発したのだそうだ。



どうやら、この15歳の献帝は「自分が政治を取り仕切る」という、本来皇帝がするべき仕事に対する意識がとても高かったらしい。



自帝都許、守位而已、宿衛兵侍、莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策、曹操惡而殺之。其餘内外多見誅戮。
操後以事入見殿中、帝不任其憤、因曰「君若能相輔、則厚。不爾、幸垂恩相捨。」操失色、俛仰求出。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后)


若き献帝のそういった性質や態度は、少し後の許県時代に当時の政権担当者へのブチ切れ寸前という感じの言動にも通じているようにも思える。