『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その37

その36(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/12/000100)の続き。





十九年夏四月、旱。
五月、雨水。
劉備劉璋、據益州
冬十月、曹操遣將夏侯淵討宋建于枹罕、獲之。
十一月丁卯、曹操殺皇后伏氏、滅其族及二皇子。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安19年。



劉備益州を得る。



そして伏皇后が死ぬ。


董承女為貴人、(曹)操誅承而求貴人殺之。帝以貴人有𡜟、累為請、不能得。后自是懷懼、乃與父完書、言曹操殘逼之状、令密圖之。完不敢發。
至十九年、事乃露泄。操追大怒、遂逼帝廢后、假為策曰「皇后壽、得由卑賤、登顯尊極、自處椒房、二紀于茲。既無任・姒徽音之美、又乏謹身養己之福、而陰懷妒害、苞藏禍心、弗可以承天命、奉祖宗。今使御史大夫郗慮持節策詔、其上皇后璽綬、退避中宮、遷于它館。嗚呼傷哉!自壽取之、未致于理、為幸多焉。」
又以尚書令華歆為郗慮副、勒兵入宮收后。閉戶藏壁中、歆就牽后出。時帝在外殿、引慮於坐。后被髮徒跣行泣過訣曰「不能復相活邪?」帝曰「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰「郗公、天下寧有是邪?」遂將后下暴室、以幽崩。所生二皇子、皆酖殺之。
后在位二十年、兄弟及宗族死者百餘人、母盈等十九人徙涿郡。
(『後漢書』紀第十下、皇后紀下、献帝伏皇后)

十数年後になって発覚したという皇后の父への(曹操の酷さを語った)手紙によって伏皇后は廃位の上で逮捕されて死んだ。「以幽崩」というのは、自殺を強要されたか拷問死したか、というところだろう。



献帝の返事が悲哀籠り過ぎである。




なお、劉備たちによると伏皇后と共に殺された皇子というのは皇太子だったという


実際に皇太子として立てられていたという記録は無いはずだが、皇后の実子(あるいは皇后が後ろ盾になっていた子)であるから、いずれ献帝の後を継ぐべき皇子と思われて当然という事だと思う。




まあ、皇后が陰謀の主犯とされて殺されるという事だけは仕方ないようにも見えるわけだが、献帝のコメント、そして次の皇后が誰になるのかという点がちょっとね・・・。極黒の陰謀で殺されたんじゃないの感が強い・・・。