袁紹忠臣説3

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20111206/1323097490の続き。



【その6】

袁紹漢王朝の再興のために働く忠臣であったことは既に述べてきたが、中にはこんな疑問を持つ人もいるかもしれない。

呉書曰、(韓)馥以書與袁術、云帝非孝靈子、欲依絳・灌誅廢少主、迎立代王故事。稱(劉)虞功紱治行、華夏少二、當今公室枝屬、皆莫能及。又云「昔光武去定王五世、以大司馬領河北、耿弇・馮異勸即尊號、卒代更始。今劉公自恭王枝別、其數亦五、以大司馬領幽州牧、此其與光武同」
(『三国志公孫瓚伝注引『呉書』)

韓馥は献帝霊帝の子ではない、などと袁術に話して劉虞即位への賛同を促していた。

韓馥は袁紹の劉虞擁立を一緒に進めた人物なので、これは袁紹の考えと同一視して差し支えないだろう。


袁紹はこんな濡れ衣を被せる人物じゃないか!酷い!と思った人もいただろう。



しかし、そう思った人はhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100704/1278169275を見てほしい。

前漢呂后死後のこと、権力を握る呂氏を滅ぼした陳平・周勃らは当時の皇帝を廃位して文帝を立てた。

当時の皇帝は陳平らによれば「本当は呂氏」だとされ、夏侯嬰によって宮殿から連れ出されて密かに始末されたのである。


袁紹がやろうとしたことは前漢の高祖の事業を支え、死後の漢王朝を守った功臣たちのやったことと変わらないのである。


この件をもって袁紹を非難するなら、陳平や周勃や夏侯嬰を最低最悪の不忠者と言わなければ道理に合わないだろう。


数年間皇帝として認めておいて、呂氏がいなくなったとたんに血統の否定を宣告して殺す。


これを漢王朝にとってはやむを得ない犠牲であり方便であったと言うなら、袁紹もまた漢王朝のためのやむなき方便であったと考えるべきなのだ。


誰も僕を責めることはできない」とはまさにこのことであろう。



【その7】

袁術)憂懣不知所為、遂歸帝號於(袁)紹曰「祿去漢室久矣、天下提挈、政在家門。豪雄角逐、分割疆宇。此與周末七國無異、唯彊者兼之耳。袁氏受命當王、符瑞炳然。今君擁有四州、人戸百萬、以彊則莫與爭大、以位則無所比高。曹操雖欲扶衰奬微、安能續絶運、起已滅乎!謹歸大命、君其興之。」紹陰然其計。
(『後漢書』列伝第六十五、袁術伝)

皇帝を称した袁術は、進退窮まるとついに皇帝号を袁紹に贈呈して協力を仰ごうとしたという。

上記の『後漢書』では「袁紹は密かに皇帝たるべしという袁術の言に同意した」とされていて、これが事実なら袁紹袁術の同類と言わざるを得ない。


だがよく考えてほしい。

どうも皇帝号を称したことが致命的だったようにも見える末期の袁術であるが、そんな人物のいわくつきの帝号、彼からの即位の勧めなど貰って誰が喜ぶだろうか。

増して、以前より述べているように若き日は漢王朝の護持、再興を願いとし、最近でもその思いが変わっていない袁紹である。


何かおかしいではないか。
人物設定が一貫していない。少年だった主人公が突如大人に変身するくらいの超展開である。


この部分は『三国志』注を見ると『魏書』からの引用に基づいているようだ。
魏の時代の王沈『魏書』が元、ということは魏王朝にとって都合の良い内容になっている可能性を疑うべきだろう。

そうやって見ると、曹操をやたら持ち上げるような内容となっており、どうも胡散臭いと思わずにはいられない。



元より僭称者の汚名のある袁術をおっかぶせることで、袁紹漢王朝への忠誠心に疑問符を付け、相対的に曹操を持ち上げ、ひいては魏王朝の正当性を主張する。

王沈がどこまで意識していたかはわからないが、ここはそういう内容である。

「ひそかに」などという内心だけの動きは表には現れていなかったのだから記録に残っているはずもなく、後からでもいくらでも言えるのではないか。
(というか、「ひそかに」ということは表向きには同意していなかったということではないのか。)


おそらく、袁術袁紹に助けを求め、袁紹も同意したところは事実だろう。
しかし、そこに上記のようなやり取りがあり、袁紹が内心ではそれに同意していたと解釈する点については『魏書』を素直に信じ込むべきではないのではなかろうか。




袁紹曹操に負けて滅んだことは紛れもない事実である。

そして敗者というのは大抵が悪く言われるもので、袁紹も同様であった。

しかしながら我々は袁紹曹操に対し何の貸し借りもない関係なので、フラットな目で評価し、敗北者補正、勝利者補正を極力排して何の不都合もない。

そうすることによって、やっと袁紹の正体、曹操の正体が見えてくるのではないだろうか。