袁紹忠臣説はちょっと休む。
あと1回か2回はやると思う*1。
今回は我らが風俗通応劭先生関連。
初、父(應)奉為司隸時、並下諸官府郡國、各上前人像贊、劭乃連綴其名、録為状人紀。又論當時行事、著中漢輯序。撰風俗通、以辯物類名號、釋時俗嫌疑。雖不典、後世服其洽聞。凡所著述百三十六篇。又集解漢書、皆傳于時。
(『後漢書』列伝第三十八、応劭伝)
応劭先生の著作として「状人紀」、「中漢輯序」、「風俗通」、「漢書集解」があったという。
「中漢輯序」ということは、応劭先生はいわゆる後漢のことを「中漢」と呼んだらしい*2。
どこまでを「中漢」と区分したのか少々気になるところだ。
当時の皇帝劉協(献帝)を含んだのか、それとも含まなかったのか。あるいは奥田民生の「マシマロ」のようにタイトルにあまり深い意味はなかったのか。
応劭先生は最終的に袁紹のところに居たというのもあり、ちょっと気になった次第。