預言が先か封建が先か

太史丞許芝條魏代漢見讖緯于魏王曰・・・(中略)・・・故白馬令李雲上事曰『許昌氣見于當塗高、當塗高者當昌於許。』當塗高者、魏也。象魏者、両觀闕是也。當道而高大者魏。魏當代漢。・・・(後略)
(『三国志』巻二、文帝紀、延康元年、注引『献帝伝』)

曹丕が即位する際、多くの者が「魏王曹丕こそ天命が降りた新たな天子であり、その「しるし」が預言や天文に出ている」と証言している、という体の上奏がされているのであるが、その中の一つに「当塗高」というのがある。




これは「代漢者当塗高」という讖書の預言のことと思われ、それは以下のようにこの当時各地で意識されていた謎の預言であったようだ。

帝患之、乃與(公孫)述書曰「圖讖言『公孫』、即宣帝也。代漢者當塗高、君豈高之身邪?・・・(後略)
(『後漢書』列伝第三、公孫述伝)

典略曰、(袁)術以袁姓出陳、陳、舜之後、以土承火、得應運之次。又見讖文云「代漢者當塗高也。」自以名字當之、乃建號稱仲氏。
(『三国志』巻六、袁術伝注引『典略』)

この預言は光武帝が公孫述に対して語っているところから考えると、どうやら後漢成立前後には早くも知られていたようで、袁術が即位の際の理由づけの一つとしたことは有名である。




当時この手の預言は、信じない者もいただろうが、即位の時にも根拠の一つとしては数えられる程度には意味を持っていたことは冒頭の曹丕の時の例からもわかるだろう。




時人有問「春秋讖曰代漢者當塗高、此何謂也?」(周)舒曰「當塗高者、魏也。」
(『三国志』巻四十二、周羣伝)

(譙)周因問曰「昔周徴君以為當塗高者魏也、其義何也?」(杜)瓊答曰「魏、闕名也、當塗而高、聖人取類而言耳。」
(『三国志』巻四十二、杜瓊伝)


だが、よく考えてみると、「当塗高」を「魏」のことと考え、「漢に代わるには魏である」とするのは、明らかに曹操が魏公になる以前からあった解釈である。



また、そもそも「魏」という字は「高い」の意味であるのだから、「当塗高」の解釈として「魏」が出てくるのは特別優秀な学者に限らずとも、まあ十分考え付く範囲内であったと思われる。





つまり何が言いたいかと言えば、曹操が「魏公」になる段階で、既に「代漢者当塗高」の一つの解釈として「魏」が存在していたのはまず確実だ、ということだ。



それは当時の知識人の頂点を極めた者たちの巣窟と言ってもいい曹操のサロンにも当然言えることである。


曹操やその近臣たちはもちろんそれを知っていたことだろう。





となると、曹操が封建される地の名前として「魏」を選んだのは、単に冀州を地盤としていたからということではなく、「代漢者当塗高」という当時の有名な預言に曹操を適合させるという、いわば「即位のための準備」として必要な措置であった、ということになるのではなかろうか。